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本能寺の変 1582 信長の甲斐侵攻 4 229~235 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

信長の甲斐侵攻 4 勝頼の首 

*229~235は、バックナンバーです。

229 天正十年1582、三月十一日。     『信長公記』

   滝川一益が勝頼を取り囲んだ。          『信長公記』
   滅亡の時が来た。                『信長公記』
   武田信勝は、十六歳。              『信長公記』 

230 勝頼父子、生害。            『信長公記』

   勝頼父子の首。                 『信長公記』
   滝川一益の手柄である。             『信長公記』

231 越中で、一揆が蜂起した。        『信長公記』

   柴田勝家が富山城を包囲した。          『信長公記』

232 信長は、岩村から国境を越えて信濃に入った。『信長公記』

   信長は、勝家に、武田の滅亡を知らせた。     『信長公記』

233 信長は、浪合で勝頼の首と対面した。   『信長公記』

   光秀も、浪合で勝頼の首を見た。
   信長は、戦後の処理について考えた。

234 信長は、飯田で勝頼の首を晒した。    『信長公記』

   信長は、武田の滅亡を世に知らしめた。      『信長公記』
   武田信豊の最期。                『信長公記』
   信豊の首。                   『信長公記』

235 信長は、勝頼の乗馬大鹿毛を信忠に与えた。『信長公記』

   信忠は、自慢の後継者だった。
   信長は、武田の消滅を実感した。         『信長公記』
   信長は、執念深い。
   信長は、勝頼の首を京へ送った。         『信長公記』
   長谷川宗仁は、首の配達人。 

          ⇒ 次回へつづく


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