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本能寺の変 1582 光秀という男 5 111 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

光秀という男 5 1400年代 

1400年代、後半。

 将軍は、8代義政・9台義尚・10代義材・11代義澄の時代。
 土岐氏は、持益―成頼―政房の代。

斎藤氏は、急激に勢力を拡大した。

 斎藤氏は、富島氏を守護代の地位から引きずり落した。
 持益は、すでに取り込んでいる。
 となれば、斎藤氏の天下、・・・・・。

 しかし、富島氏も黙ってはいない。
 宝徳四年(1450)。
 守護代斎藤宗円を暗殺した。
 正に、血で血を洗う争いが繰り広げられた。

 斎藤氏は、嫡男利永がその跡を継いだ。

斎藤利永は、土岐持益の後継問題に介入した。

 康正元年(1455)。
 持益に、後継問題がおきた。
 利永は、成頼を擁立した。
 持益は、これを承諾。 
 成頼がその跡を継ぐ。 

土岐成頼は、利永の傀儡にすぎない(一色氏)。

 成頼(しげより)は、一色氏の出自という。
 饗庭氏・土岐氏の一族との説もあり、定かではない。
 何れにしても、西池田氏以外の人である。

 土岐氏の後継者は、斎藤氏によって決められた。

 土岐守護家は、次のように繋がっていく。

 ⑦持益―成頼―政房―頼武―頼芸 

斎藤利藤が利永の跡を継いだ(惣領家)。

 長禄四年(1460)。
 利永、没。
 嫡男利藤が後継する。

斎藤妙椿が利藤を後見した(持是院家)。

 妙椿は、斎藤宗円の子。
 利永の弟。
 利藤の叔父。
 出家して、仏門に入っていた(持是院)。
 兄の死により、利藤の後見人となる。
 斎藤氏の実権を握った。


          ⇒ 次回へつづく


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