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本能寺の変 1582 信長の台頭 6 286 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

信長の台頭 6 三好の絶頂 

長慶は、高屋城を攻めた。

 畠山氏の本拠である。
 大阪府羽曳野市古市(安閑天皇陵)。 

  同(八月)卅日、三好、高屋城近所え、押し寄せける、

長慶は、河内を乗っ取ろうとしていた。

 一国丸々。
 「其の儀ならば、高政をも、責め落とせとて」

畠山氏は、連戦連敗。

 苦しい戦いがつづく。

 同九月。
 畠山方、反撃ならず。 

  同九月九日、畠山方、貴志・丹下・野尻等(畠山氏の家臣)、
  東の川原口え突ひて出で、伊丹衆と合戦す、
  高屋衆、打ち負け、城え引き返す、

 同十月。
 畠山方の後詰衆、敗れる。

  同十月八日、畠山方、香西越後守・山中新左衛門・木沢新太郎、
  飯盛の後詰として、
  山城国、杉山(炭山=京都)口え、打ち出でる、
  三好衆、馳せ向かひ、責め戦ひければ、
  後詰衆、打ち負け、香西・木沢を始め、五十余人討死す、

 根来衆、畠山氏に味方すれども、これまた敗れる。  

  同十月十五日、根来衆、杉の坊岩室、大将として、五百人、
  高屋城の後巻しけるを、
  三好方、押し寄せ、散々、責め戦ひければ、
  根来衆、打ち負け、八十九人討死す、
  生け捕り、七人まで、三好方え、召し捕らへければ、
                         (「足利季世記」)

 最早、打つ手なし、である。
  

          ⇒ 次回へつづく


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