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本能寺の変 1582 斎藤道三の下剋上 2 160 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

斎藤道三の下剋上 2 光秀と長宗我部元親 

長宗我部氏の家紋について。

 家紋は、鳩酢草(カタバミ)である。
 そのいわれについて。

  その御盃の中に、鳩酢草と云ふ草葉一つ浮き、これを飲む、
  此の故を以って、鳩酢草を家の紋に定むと云ふ、

元親は、長宗我部氏の二十一代目という。

 初代を能俊(よしとし)と云う。
 
  家の初めは、能俊と申す、

  扨(さて)また、十一代目信能の代、
  尊氏(足利)将軍召され、御代最前(真っ先に)御味方に参ず、
  恩賞、一かたならず、
  爾来、代々武勇の家なり、

 
 その二十一代が元親である。
 
  七郡の侍、皆隔心し、
  已(すで)に当家を取り消すべしとせしこと、
  数度に及ぶの由、昔語りに伝え聞く、

  然りといえども、冥加天道に叶う哉、
  数代を経て、元親卿まで廿一代とあり、
                           (「元親記」)

幼少期の元親について。

 幼少期は、姫若子と呼ばれ、柔和な性格だったという。
 だが、長じて後一変、土佐の出来人といわれる人物になる。
 
  此の元親は、生得背高く色白く、
  柔和にして、器量・骨柄天晴類なしと見えながら、
  要用のほかは物いふことなく、人に対面しても会釈もなく、
  日夜深窓にのみ居給ひければ、姫若子と異名をつけて、
  上下囁き笑ひけり、
                          (「土佐物語」)
 


          ⇒ 次回へつづく




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