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本能寺の変 1582 光秀と信長 2 59~64 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

光秀と信長 2 美濃立政寺 

*59~64は、バックナンバーです。

59 永禄十一年(1568)、夏。

  義昭は、一乗谷を出発した。

  義昭は、信長を頼る外なかった。          『信長公記』
  信長は、義昭を擁立した。             『信長公記』

60 信長は、義昭を美濃立政寺に迎えた。   『信長公記』

  盛大な祝宴が催された。              『信長公記』
  義昭は、満足した。                『信長公記』
  藤孝は、復活した。
  藤孝は、大きな手柄を上げた。

61 光秀は、藤孝の下で動いていた。

  信長は、伊勢を狙っていた。
  光秀の貢献度は、大きい。

62 信長は、自信に漲っていた。

  背景には、領国拡大があった。

63 石高は、優に百万石を超えていた。     「当代記」

  武田信玄・上杉謙信・朝倉義景との比較。       「当代記」
  そして、足利義昭を手に入れた。
  信長は、「天下」に王手を懸けた。

64 信長は、余裕があった。   「志賀槇太郎氏所蔵文書」

  信長は、後顧に憂いがなかった。    「志賀槇太郎氏所蔵文書」
  信玄と家康が今川領を折半した。    「志賀槇太郎氏所蔵文書」
  信長は、謙信に上洛への協力を要請した。「志賀槇太郎氏所蔵文書」
  謙信は、越中の一向一揆と戦っていた。 「志賀槇太郎氏所蔵文書」


 
          ⇒ 次回へつづく

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