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本能寺の変 1582 信長の甲斐出陣 3 130 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

信長の甲斐出陣 3 信長、出陣 

信長にとって、信忠は自慢の息子だった。

 「我々、出馬、専なく候へども」、とある。
 これ以上の、息子自慢があるだろうか。

信長は、関東見物をするつもりだった。

 見物とは、名目にすぎぬ。
 北条氏への牽制に他ならない。
 足利義満を見よ。
 富士遊覧をしているではないか。
 「鎌倉公方」
 これと、同じ。

 繰り返す。
 「戦わずして、勝つ」
 これが、信長の信条なのである。

  我々出馬、専(詮)なく候へども、連々関東見物の望みに候、
  幸の儀に候間相越し候、

  四郎事、彼等代々の名をくだし候、
  此の如く、早々、平均に属し候間、何れの口も輙(たやす)き事に候、
  その意をなすべく候也、

   三月八日            信長御判
    柴田修理亮殿
                 (「古今消息集」「古証文」2/2)

 信長は、岩村から信濃へ入ろうとした。

 三月九日
 金山城着。
 犬山・金山間、凡そ五里(20km)。
 
  九日、金山御泊り、
 
 三月十日
 信長、高野(こうの)城着。
 金山・高野間、凡そ六里(24km)。
 
  十日、高野御陣取り。
 
 三月十一日
 信長は、岩村城に着いた。
 高野・岩村間、凡そ六里(24km)。
 
  十一日、岩村に至りて、信長御着陣。
                          (『信長公記』)             

 

          ⇒ 次回へつづく



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