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本能寺の変 1582 信長の台頭 5 281 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

信長の台頭 5 武田信玄と天沢和尚 

天沢は、信長の鷹狩について述べた。

信長は、用意周到である。

信長は、実に、用心深い。

 鷹野は、戦と同じ。
 先ずは、物見。

 信玄は、聞き入った。  

  鷹野の時は、廿人、鳥見の衆と申す事申し付けられ、
  二里、三里御先へ罷り参り侯て、
  あそこの村、爰(ここ)の在所に、鴈あり、鶴ありと、
  一人鳥に付げ置き、一人は注進申す事に侯。

 六人の衆と云ふ事。
 信長の身辺に控えた者たち。
 この中に、太田牛一(又介)の姿も見える。
 
  又、六人衆と云ふ事定められ、
  弓、三張の人数、浅野又右衛門・太田又介・堀田孫七、以上。
  鎗、三本人数、伊藤清蔵・城戸小左衛門・堀田左内、以上
  此の衆は、御手まはりに、これに在るなり。

信玄は、戦場をイメージした。 

信長は、勝機を逃がさない。

 信長は、様子を窺いつつ。 
 獲物に近づき。 

  一、馬乗一人、山口太郎兵衛と申す者、
    わら(藁)をあぶ(虻)付きに仕り侯て、
    鳥のまはりをそろりそろりと乗りまはし、
    次第々々に近より、

    信長は、御鷹居(す)ゑ給ひ、
    鳥の見付け侯はぬ様に、馬の影にひつ付いて、
    ちかよ(近寄)り侯ひし時、
    はしり出で、御鷹を出ださる。

それ故、信長は、戦いに勝った。

 仕留めるのである。
 
    向待ちと云ふ事を定め、是れには鍬をもたせ、
    農人の様にまなび(似せて)、そら田をうたせ、
    御鷹(=鷹が獲物の鳥に)取付き侯て、くみ合ひ侯を、
    向待ちの者、鳥をおさへ申し侯。

信長は、戦巧者である。

 信長は、鷹狩が上手だった。
 それ故、獲れぬことが少なかったという。

    信長は、達者侯間、度々おさへられ侯と承り及び侯。
                          (『信長公記』)


          ⇒ 次回へつづく

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