見出し画像

本能寺の変 1582 上総介信長 6 209 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

上総介信長 6 道三の最期 

信長は、祭りが大好きだった。

 天文二十四年(1555)
 信長、二十二歳。
 この頃のことだろう。
 信長の、別な一面が見える。
 若者の姿である。

 七月十八日。
 丁度、お盆。
 信長は、津島にいた。
 
  七月十八日、おどりを御張行
  一、赤鬼、平手内膳衆、
  一、黒鬼、浅井備中守衆、
  一、餓鬼、滝川左近衆、
  一、地蔵、織田太郎左衛門衆、

   辨慶に成り候衆、勝れて器量たる仁躰なり。
  一、前野但馬守、辮慶、
  一、伊東夫兵衛、辮慶、
  一、市橋伝左衛門、辮慶、
  一、飯尾近江守、辮慶

  一、祝(ほうり)弥三郎、鷺になられ侯。
    一段、似相申し侯なり。

  一、上総介殿は、天人の御仕立に御成り侯て、
    小鼓を遊ばし、女おどりをなされ侯。
 
  津島にては、堀田道空庭にて、一おどり遊ばし、
  それより清洲へ御帰りなり。

信長は、大衆に人気があった。

  性格なのだろう。
 大衆の心の内へ、入って行くことが出来た。
 心情的交流が見える。

  津島五ヶ村の年寄ども、おどりの返しを仕り侯。
  是れ又、結構申す計りなき様躰なり。
  清洲へ至り候。

 彼らにとって、自慢の領主だった。
 
  御前へめしよせられ、
  是れはひようげたり、又は似相たりなどと、
  それぞれあひあひと、しほらしく(親しげに、もっともらしく)、
  一々御詞懸けられ、
  御団(うちわ)にて、冥加なく(恐れ多くも)あをがせられ、
  御茶を給(た)べ侯へと下され、

  悉(かたじけな)き次第、炎天の辛労を忘れ、有り難く、
  皆、感涙をながし、罷り帰り侯ひき。
                           (『信長公記』)


          ⇒ 次回へつづく



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?