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本能寺の変 1582 光秀という男 3 107 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

光秀という男 3 土岐氏 

第三代将軍足利義満は、土岐氏を危険と見た。

 表があれば、裏もある。
 義満は、土岐頼康を警戒していた。
 何しろ、濃・尾・勢、三ヶ国の守護。
 東西を分断する交通の要衝。
 土岐の桔梗一揆。
 その、武力は強大だった。
 となれば、当然である。

義満は、将軍専制政治を目指した。

 以下、義満の略歴を示す。

 1538 正平十三年/延文三年  義詮の子として生まれる。
 1368 正平二十三年/応安元年 征夷大将軍に就任。
 1378 天授四年/永和四年   花の御所に移る。
 1379 天授五年/康暦元年   康暦の政変(管領細川頼之を罷免)。
 1388 元中五年/嘉慶二年   富士遊覧。
 1389 元中六年/康応元年   厳島神社参詣。
  〃    〃   〃      土岐康行の乱。
 1391 元中八年/明徳二年   明徳の乱(山名氏を討伐)。
 1392 元中九年/明徳三年   南北朝合一。
 1394 応永元年        将軍職を嫡男義持に譲る。
 1395 応永二年        九州探題今川貞世を罷免。
 1399 応永六年        応永の乱(大内義弘を討伐)。 
 1401 応永八年        日明国交の樹立(日本国王)。
 1404 応永十一年       勘合貿易が始まる(朝貢貿易)。
 1408 応永十五年       急病により死去(享年五十一)。


          ⇒ 次回へつづく


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