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本能寺の変 1582 光秀の苦悩 4 27 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

光秀の苦悩 4 粛清の怖れ 

信長は、光秀を見習えと言っている。

 光秀は、「日向守が働き、天下の面目をほどこし侯」、であり。

これが、信盛の生き方だった。

 信盛は、「この三十年間、手柄らしい手柄を上げていない」、である。
  
  一、信長代になり、三十年奉公を遂ぐるの内に、
    佐久間右衛門、比類なき働きと申し鳴らし侯儀、
   一度もこれあるまじき事。
 

信長は、それを見ていた。

 光秀を、見よ。
 秀吉を、〃〃。
 勝家を、〃〃。

 四人は、ともに、織田家最高位の重臣。
 当然、比較の対象となる。

信盛は、油断した。

 信長の性格を、よくわかっていない。

三方ヶ原の合戦。

 八年前。
 元亀三年(1572)、十二月。
 敵は、戦国最強を誇る甲斐の虎。
 あの、武田信玄である。
 家康、最大の危機であった。
 信長の四囲は、皆、敵。
 信長は、家康支援のため、信盛を将とする軍勢を浜松へ派した。
 
  一、一世の内、勝利を失はざるの処、
    先年、遠江へ人数を遣(つかは)し侯刻(きざみ)、    

しかし、信盛は、戦わず。

 逃げた。

    互に勝負ありつる習(勝敗があるのは世の習いなのだから)、
    紛れなく候(敗れたのは紛れもない事実である)。

 
    然りといふとも、
    家康使をもこれある条(家康からの強い要望でもあったのだから)、
    をくれの上にも(後れを取ったとしても)、

    兄弟を討死させ、又は、然るべき内の者打死させ候へば、
    その身(信盛)、時の仕合(状況)に依て遁(逃)れ侯かと、
    人も不審を立つべきに(推量するだろうに)、

    一人も殺さず。

信長は、信盛に疑念を抱いた。

 繰り返す。
 信長は、猜疑心が強い。
 その上、執念深いのである。

信長は、面目を潰された。

 そして、誰よりも、誇り高い男なのである。
    
    剰(あまつさ)へ、平手(汎秀)を捨て殺し、

    世にありげなる(平然とした)面をむけ侯儀、

    爰(ここ)を以て、条々、無分別の通り、紛れあるべからずの事。
                           (『信長公記』)


          ⇒ 次回へつづく 


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