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本能寺の変 1582 信長の台頭 1 241 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

信長の台頭 1 信勝謀殺 

浮野合戦の事。

 同日、昼。
 戦いが始まった。
 
  一、七月十二日、午(うま)の剋(12時頃)、
    辰巳(東南)へ向つて切りかゝり、数剋相戦ひ追崩し、
 
    爰(ここ)に、浅野と云ふ村に、林弥七郎と申す者、
    隠れなき弓達者の仁体なり。
    弓を持ち、罷り退き侯ところへ、
    橋本一巴、鉄炮の名仁、渡し合ひ、連々の知音たるに依つて、
    林弥七郎、一巴に詞をかけ侯。
    たすけまじき(助けない)と、申され侯。
 
    心得侯と申し侯て、
    あいか(矢じりの一種)の四寸計りこれある根を、
    しすけたる(仕込んだ)矢をはめて、立ちかへり侯て、
    脇の下へふかぶかと射立て侯。
    もとより、一巴も、ニツ玉をこみ入れたるつゝ(=鉄砲)を
    (肩に)さしあてて、はなし侯へば、倒れ臥しけり。
 
    然るところを、信長の御小姓衆、佐脇藤八、走り懸かり、
    林が頸をうたんとするところを、居ながら大刀を抜き持ち、
    佐脇藤八が左の肘を小手(籠手)くはへに(=ごとに)打ち落す。
    かゝり向つて、終に頸(首)を取る。
    林弥七郎、弓と太刀との働き、比類なき仕立なり。

信長は、清洲に帰陣した。

 勝敗は、決した。
 信長は、深追いせず。
 兵を引いた。
 岩倉城は、目と鼻の先にある。
 なれど、これを攻めず。
 
  さて、其の日(七月十二日)、清洲へ御人数打ち納れられ、

信長は、岩倉方に壊滅的な打撃を与えた。

  翌日、頸御実検。
  究竟(くっきょう)の侍、頸かず千弐百五十余りあり。
                          (『信長公記』)


信長と、ともにあった十五年。
永禄十一年1568~天正十年1582。
光秀を知ることは、信長を知ることである。


          ⇒ 次回へつづく


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