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本能寺の変 1582 信長の台頭 1 242 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

信長の台頭 1 信勝謀殺 

信長の名声は、大いに高まった。

岩倉織田氏は、再起不能に陥った。

 大敗北である。
 これで、形勢が逆転した。
 岩倉城は、沈みゆく泥船と化した。
 最早、味方する者など誰もいない。
 敵中に取り残された。

信長は、家臣らに新知を分け与えた。

 九月。
 以下は、この頃、家臣らに発給された知行宛行状である。
 何れも、岩倉織田氏の領内と思われる。
 すでに、支配力を喪失していたのだろう。

  扶助として、北方の内、興雲寺領拾貫文、堀之内公文名弐拾貫文、
  都合三千疋申し付け候上は、相違有るべからざる者なり、

     永禄元
      九月十五日        信長(花押)
       恒川中とのへ
                        (「生駒家宝簡集」)

  扶助として、野々村大膳分の内、登立・竹藤両所弐拾貫文、
  高田中務丞分、五日市庭弐拾貫文、
  都合四拾貫文、申し付くる上は、相違有るべからざる者なり、
  仍って、状、件の如し、

     永禄元
      九月十七日        信長(花押)
       前野勝右衛門尉殿
                    
 (「大森洪太氏保管文書」)


信長と、ともにあった十五年。
永禄十一年1568~天正十年1582。
光秀を知ることは、信長を知ることである。


          ⇒ 次回へつづく



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