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本能寺の変 1582 光秀と細川藤孝 2 46 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

光秀と細川藤孝 2 上洛不発 

ここで、状況が一変した。

 同年(永禄九年1566)、八月。
 正に、有為転変は世の習い。
 時代は、激動していた。

三好三人衆が坂本に進出した。

 矢島御所を狙った。
 義昭は、先手を打った。
 辛うじて、これを撃退。
 
  四日、壬戌(みずのえいぬ)、天晴、村雨晴陰、
  去る夜、江州矢島、引手(出勢)これあり、
  夜討ちに、三好方、坂本まで三千計り罷り向ふと云々、
  計略に依り、具足以下、済々(多くの者が)これを捨て、
  卅人計り討たるゝと云々、

                           (「言継卿記)

義昭は、六角承禎の離反を知った。

 六角氏は、三人衆と通じていた。
 矢島は、手薄。
 「急がねばならぬ」
 義昭は、我が身の危機を察知した。


          ⇒ 次回へつづく 

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