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本能寺の変 1582 信長の甲斐侵攻 1 12 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

信長の甲斐侵攻 1 信忠、出陣 

信忠は、破竹の勢いで進撃した。

 同、三月。
 飯島から、天竜川を越え、貝沼原へ進出(長野県上伊那郡飯島町・同伊那市
 富県貝沼)。

  三月朔日、三位中将信忠卿、飯島より御人数を出だされ、
  天龍川乗り越され、貝沼原に御人数立てさせられ、

  攻撃準備は、ととのった。
 この日は、同地に宿泊。

  中将信忠卿は、御ほろの衆十人ばかり召し列れ、
  仁科五郎楯籠り侯高遠の城、川よりこなた高山へ懸け上(のぼ)
  させられ、
  御敵城の振舞・様子御見下墨(みさげすみ)なされ、
  其の日は、かいぬま原に御陣取。

信忠は、高遠城を攻めた。

 戦いは、夜明けとともに始まった。

  三月二日、払暁に、御人数寄せられ、
  中将信忠卿は、尾続きを搦め手の口へ取りよらせられ、
  大手の口、森勝蔵・団平八・毛利河内・河尻与兵衛・松尾掃部大輔、
  此の口へ切つて出で、数刻相戦ひ、数多討取り侯間、残党逃げ入る
  なり。
 

信忠は、勇猛だった。

 自らも、塀際へ突撃して、一斉攻撃を命じた。
 敵味方、入り乱れての激戦となった。

   か様侯処(ところ)、
  中将信忠御自身、御道具を持たせられ、先を争つて塀際へつけられ、
  柵を引き破り、塀の上へあがらせられ、
  一旦に乗り入るべきの旨、御下知の間、

  我劣らじと、御小姓衆・御馬廻城内へ乗り入り、
  大手・搦手より、込み入り、込み立てられ、火花を散らし相戦ひ、
  各(おのおの)、疵(きず)を被り、討死、算を乱すに異らず。
 

わずか一日で、高遠城を攻略した。

 落城の様子である。

  歴々の上﨟・子供、一々に引き寄せ 〃 〃 、差し殺し、
  切つて出で、働く事、申すに及ばず。
  
  爰(ここ)に、諏訪勝右衛門女房、刀を抜き切つて廻り、比類なき働き、
  前代未聞の次第なり。
  又、十五、六のうつくしき若衆一人、弓を持ち、
  台所のつまりにて、余多射倒し、矢数射尽し、
  後には刀を抜き切つてまはり、討死。

  手負い・死人、上を下へと員(かず)を知らず。 

これが、武田最後の戦いになった。

 組織的抵抗の終わりである。

  討捕る頸の注文。
  仁科五郎、原隼人・春日河内守・渡辺金大夫・畑野源左衛門・
  飛志越後守・神林十兵衛・今福又左衛門・
  小山田備中守 ( 是は仁科五郎脇大将にて候なり ) ・小山田大学・
  小幡因幡守・小幡五郎兵衛・小幡清左衛門・諏訪勝右衛門・
  飯島民部丞・飯島小太郎・今福筑前守。

  以上、頸数四百余あり。
 

仁科信盛の首。

 信盛は、武田信玄の五男。
 勝頼の弟である。
 享年、26。

  仁科五郎が頸、信長公へもたせ、御進上候。
                         (『信長公記』)
 

          ⇒ 次回へつづく 


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