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本能寺の変 1582 上総介信長 2 186 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

上総介信長 2 富田聖徳寺 

其の時、信長の御仕立。

 これでは、「噂」通り。
 「大うつけ」の姿。
 
  其の時、信長の御仕立、
  髪はちやせん(茶筅)に遊ばし、
  もゑぎ(萌黄)の平打にて、ちやせんの髪を巻き立て、
  ゆかたびら(湯帷子)の袖をはづし、
  のし(熨斗)付の大刀・わきざし、
  二つながら、長つかに、みごなわにてまかせ、
  ふとき苧なわ、うでぬき(腕抜き)にさせられ、
  御腰のまはりには、猿つかひの様に、
  火燧袋・ひようたん七ツ、八ツ、付けさせられ、
  虎革・豹革、四ツがわり(変わり)の半袴をめし、

信長は、弓・鉄砲を五百挺持っていた。

 道三の、両眼がギラついた。
 知る者ぞ、知る。

  御伴衆、七、八百、甍を並べ、健者(すくやかもの)先に走らかし、
  三間々中柄の朱やり、五百本ばかり、
  弓・鉄炮、五百挺もたせられ、
                         (『信長公記』)

力こそ、正義。

 信長は、このことを知っていた。

 弓・鉄炮、合わせて、「五百挺」である。
 鉄炮だけの数は、わからない。

 太田牛一は、初戦「赤塚の戦い」・第二戦「萱津の戦い」の箇所で、
 鉄炮について、全く触れていない。
 ここで、いきなり、登場する。

 信長の織田家は、経済的に裕福だった。
 おそらく、二度の戦いを経て、ダイナミックな兵制改革・軍備増強を、
 急ピッチで断行したのではないか。
 信長の軍勢は、飛躍的に、強化されていた。  

          ⇒ 次回へつづく

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