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第52回 10/12【小学生時代の自分•後編】

皆さんこんにちは!

ヴィッセル神戸の齊藤未月です!

お待たせしました。
小学生時代の後編を思い出しながら、書きました!

是非ゆっくり楽しんで読んでみてください💪


さて50回記念の続き【小学生時代の自分・後編】について話していこうと思います。

前回は、藤沢FCで出場した県大会で3位決定戦まで進むことができ、憧れの日産スタジアムでプレーできたところで終わっていたと思います。

その後すぐに、石原広教と小長井大夢の2人が湘南ベルマーレに加入することが決まりました。厳密に言うと、彼らは県大会が始まる直前ぐらいに湘南ベルマーレのセレクションを合格していて、藤沢FCとして最後の大会になっていました。

少し話からそれますが、小長井大夢という選手について紹介させてください。
おそらく今後NOTE以外の媒体で紹介することがないかもしれないので、ここで書こうと思います。

彼も広教と同様に、藤沢FCの中心選手でチームに欠かせない選手の一人でした。左利きでパスが出せ、彼のパスのおかげでたくさん得点が取れていたのは間違いないです。彼の父もパパさんコーチとして、藤沢FCをみてくれました。サッカーがめちゃくちゃ上手かったので教わることはたくさんあったと思います。

また彼の名前はちょくちょく出てくると思うので覚えておいてください。

私自身の話に戻ります。
前編で書いたように色んな事があり、マリノスプライマリーに入ることを諦めました。その当時、悔しいという感情よりは、サッカーで見返してやりたいという感情の方が間違いなく強かったです。その気持ちをどうすれば叶えることができるのか考えているときに湘南ベルマーレの存在を知りました。

小学5年生になったタイミングで藤沢FCを離れ、湘南ベルマーレへとチームを移しました。

湘南ベルマーレは当時J2でした。
もちろん、湘南ベルマーレという名前自体は聞いたことがありました。しかし所属している選手や、どこで練習しているのかなどは知りませんでした。広教と大夢が入団するまで、ベルマーレの下部組織が活動しているのかどうかさえ知りませんでした。

だからこそ、藤沢FCから二人がセレクションに合格して湘南ベルマーレに入ることを聞いたときに、そんな選択肢もあるのかと気付かされました。
Jクラブでプレーするには、マリノスの下部組織に入るしか方法がないと思っていた私からすると、驚きが強かったです。同時に中心選手の二人がベルマーレに行くなら、私も藤沢FCを離れてベルマーレに加入したいという気持ちが強くなりました。

藤沢FCとしては県大会でも良い成績がだせ、最高の思い出しかないなかで、次のステップに進んでも良いのかなと感じていました。
私にとって藤沢FCは、サッカーを始めた最初のチームで全てここから生まれたのは間違いないです。いつか還元できることがあればしていきたいですし、プロサッカー選手として活躍して恩返しをしていきたいと本気で思います。
私も広教も大夢もみんな藤沢FCでサッカー人生をスタートできたことに誇りを持ってます。

彼ら二人の後を追うように、湘南ベルマーレのセレクションを受けに行きました。
馬入の人工芝で行われるセレクションもおそらく4次試験、5次試験ぐらいまであったのかもしれません。正直な話をするとマリノスのセレクションよりレベルが高いとは思いませんでしたし、この場の状況にも慣れている自分がいたので、すんなりと自分のプレーを出すことができ、セレクション自体がとても楽しかったのを覚えています。

そういう気持ちでプレーできていると、自ずと結果もついてくるもので2次試験の合否発表の段階で、次のセレクションには行かずにもう入団して欲しいという話をもらいました。

その時はめちゃくちゃ嬉しいというより、早く湘南ベルマーレに入って成長しないとマリノスのスペシャルクラスで一緒にプレーしていた選手には追いつけなくなるという感覚でした。

自分はここで、彼らを超える。そう決断して入団を決めました。

決断はしましたが、この段階でプロになりたいとか、プロになるにはどうしたら良いかなどは全く考えていませんでした。

とにかくJクラブに入ってプレーしたいという気持ちが強くなっていた私にとってはチャンスしかなかったので、迷うことはなく湘南ベルマーレに入りました。


ここから湘南ベルマーレ編が始まります。

環境はまるっきり変わりました。

決まった曜日に練習がしっかりあったり、人工芝で練習ができたり、指導者がいたりと全てが新鮮でした。チームメイトもセレクションで合格したメンバーが集まってはいたので、間違いなく藤沢FCよりレベルの高いところでプレーができていました。

そんな中で、一番変化したところはどこか考えたときに思い浮かんだのが、移動についてです。

少年団のチームにいると、移動は基本的にチームメイトの家族の車になり、みんなで乗り合いで会場まで連れて行ってもらいます。

ただベルマーレジュニアに入ってからは、移動は基本的に自分達でするように教えられました。
どこにいくにも電車やバスなどの公共交通機関を使って移動していました。
神奈川県内なら普通なのかもしれませんが、千葉や東京といった県外にも自分達だけで向かってました。

まだギリギリスマホではなかったので、小学生ながら家のパソコンで会場の最寄り駅を調べて、電車の時間やバスの時刻表をコピーして、何人かのグループで会場に辿り着いていました。
ときには、電車の乗り換えを間違えて大慌てしたこともありましたし、最寄り駅から会場までどう行くのかわからなくて迷子になりかけたこともありました。

湘南ベルマーレに入ってから、サッカー選手としてもそうですが、人間としての成長も重要だと気付かされることが多かったと思います。

もちろんどのクラブも色んな形でそういうことを伝えているのだと思いますが、チームによって違いがあるのは面白いかもしれませんね。

サッカーの話に戻りますが、小学5年生ではチビリンピックという8人制の大きな大会がありました。神奈川県大会で優勝、準優勝した2チームが関東大会に進み、さらにそこから順位の高い数チームが全国大会に進むことができます。
はっきりとは覚えていないんですが、神奈川県大会の準決勝に進むためにグループリーグの予選があるんですが、そこで湘南ベルマーレジュニアと川崎フロンターレが勝ち点や得失点全てが並んで、まさかの抽選で関東大会に出場できるかどうかを決めました。当時のキャプテンだった大津佑和選手が箱から紙を引き、開いた瞬間走ってみんなのところに来てくれたのを覚えています。湘南ベルマーレジュニアが次のステージに進むことが決まり、大喜びでした。

しかし、結果的に関東大会や全国大会に出場して日本一になったのは、湘南ベルマーレジュニアではなく、川崎フロンターレでした。

なにが起きたのか説明します。

全国大会のチビリンピックには変わったルールがあって、前半後半の2ピリオドではなく12分✕3の3ピリオドで運用されていました。
第1ピリオドと第2ピリオドでは選手を総入れ替えしないといけません。湘南ベルマーレジュニアには総入れ替えできるほどの人数が足りていませんでした。
普通なら下の学年の選手を登録すれば良いのかもしれません、しかし当時湘南ベルマーレジュニアに私達より下の学年はいませんでした。
それは、私達の代で湘南ベルマーレジュニアがなくなるのが決まっていたからです。試行錯誤チームもしてくれましたが、結果的に出場することは叶いませんでした。代わりに出場することになった川崎フロンターレが関東大会、全国大会の両方を優勝しました。

今でも監督がみんなの前で、出場できない理由を伝えてくれたときのことを覚えています。話しが終わると涙が止まらず、みんなで泣いていました。

おそらく私達が関東大会、全国大会に出場しても優勝することはできなかったので、神奈川県を代表して川崎フロンターレが出場し、優勝してくれたことがとても嬉しかった気がします。

とても良い思い出ですね。

小学6年生になり、ここで初めてトレセンというのを経験します。
トレセンというのは、選抜チームみたいな感じです。
市トレセンから始まり県トレセン、関東トレセン、ナショナルトレセンと選ばれた選手はどんどん上のステージでプレーできます。
神奈川県の場合、市トレセンの次は県トレセンではなく県西トレセン、県東トレセンなどいくつかの地域で区切られていました。その中で選ばれた選手がセントラルトレセンと呼ばれる神奈川県トレセンとして試合や練習を行えます。
セントラルトレセンには湘南ベルマーレジュニアから2選手が毎回選ばれていて、その内の1人は広教でした。ちなみに説明し忘れましたが、広教はゴールキーパーとしてベルマーレに加入していたので、当然ながらキーパーでセントラルトレセンに選出されていました。

小学生でも、チームからそういった舞台に選出されている選手がいることは刺激になり、いつしかセントラルトレセンを目指そうとしている自分がいました。

定期的に行われるトレセンマッチで調子のよかった私は、セントラルトレセンに一度選ばれて、練習に行く機会がありました。
選ばれている選手のほとんどは、Jクラブの選手でマリノスのスペシャルクラスで一緒にプレーしていた選手も多くいました。
練習をしてみた結果ですが、なにも爪痕を残せずに終わり、それ以降選出されることはありませんでした。
一緒にプレーしたことがある選手との差が埋まっているわけではなく、むしろ広がっていたのかもしれません。

そんなトレセンなどの出来事もあった後、そろそろ湘南ベルマーレU-15に昇格できるかどうかの時期になりました。

当然ながら、ベルマーレジュニアに所属している選手全員が昇格できるわけではありません。ある時期になると監督と面談をして昇格できるのか、それとも違うチームを探さなくてはいけないのか伝えられます。2年間ではありますが、濃い時間を共にしてきた選手とバラバラになる経験はここが初めてだったかもしれません。
あの選手は絶対に昇格するだろうなと思っていた選手が、昇格できないことを聞いたりしたときは、驚きもありました。

私自身は、皆さん知っての通り湘南ベルマーレU-15に昇格しました。

ちなみに広教は、ゴールキーパーとして昇格するのではくフィールドプレイヤーとして加入するために、再度セレクションを受け合格し湘南ベルマーレU-15の選手になりました。

小長井大夢は昇格することができず、6年間一緒にプレーしてきた彼とも別のチームになることが決まりました。

昇格できるできないなど人によって違いはありましたが、私は人のことを考えているほどの余裕はなかったし、前編で書いたようにマリノスプライマリーの選手達を追い越すためには、湘南ベルマーレU-15でさらに成長する以外のことは考えられませんでした。


次の進路がみんな決まっていくなか、湘南ベルマーレジュニアとして最後の大会である神奈川県大会が残されていました。

ベルマーレジュニアがなくなるのが決まっていたので、なくなる前最後の大会は優勝をして終わりたかったです。

結果はBEST8かBEST16で負けてしまい、湘南ベルマーレジュニアとしての活動を終えました。


ここまでが自分が印象深く覚えている小学生時代の話です。

藤沢FCでサッカーを始めたところから、マリノスプライマリーのセレクションを落ち、湘南ベルマーレに加入してからも色々なことがありました。

サッカー選手として成長できたかどうかはわかりませんが、間違いなく成長した部分はメンタリティだと思います。

色々な環境に身を置けたことから、多くの気付きを得ることができましたし、明確な目標や目的を見つけることができたのかもしれません。

小学生時代の自分を振り返って思ったのは、湘南ベルマーレジュニアに入ってから全国大会で優勝したいとか、チームとして何かを達成したい気持ちというのが一番には来てなかったのかもしれません。
もちろんチームのことを考えていなかったわけではありませんが、それよりも自分が持っている目標に到達することを強く考えていました。

その考え方が自分よがりなプレーに繋がるわけでは全くありません。サッカーは1人では成立しません。自分を活かしてくれる選手がいたり、自分を助けてくれる選手もたくさんいます。1人でサッカーをしていると思われた選手は、どこかで躓き、先に進みづらくなると思います。サッカーの本質が何かをわかっているつもりではありませんが、自分の目的に向かった行動をとることと、自分の為だけに1人でサッカーをしているように観られてしまうこととは、大きな大きな違いがあると思いました。


自分の目的に向かった行動をとる為には、周りを必ず巻き込んで助け合う仲間が必要になります。

そうじゃない選手はよっぽどの能力がないと上にはいけないと思います。
多分、上に行けても転げ落ちるときは一瞬だと思います。

小学生のときはそうでも、だんだんと学び成長できれば問題ないと感じます。

そういったことを小学生の自分が考えているわけではありませんが、今回NOTEで振り返える機会があったことで、考えれたことかもしれません。

私にとってとても良い時間になっているのは間違いありません。



長々と今回も書きましたが
小学生時代の自分・後編】はこれにて完結です。

また良きタイミングで、中学生編も振り返りながら書いていけたら、新しい発見もあるのかなと思います!

意味不明な点も数多くあったかもしれませんが、ここまで読んでいただきありがとうございます!

皆さんの感想も待ってます!!!

明日は、おそらく短めになると思いますが是非読みに来てください!

ありがとうございます!

ではまた明日!


こんな写真がありました!
これは藤沢FCですね!














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