無題

[掌篇集]日常奇譚 第46話 さわやかな声

 ぼくは何度か大きな転職――職場を変わるだけではなく職業自体をがらりと変える――ということをしているのだけど、そのはざまにあったときの話。
 その頃は、恥ずかしながら、なんの仕事をすればよいか、そもそも自分になんの仕事ができるのかわからなくなってしまっていて、それでももちろん仕事はしなければならず、それで手当たり次第に求人面接を受けたり、派遣会社に登録したりしていた。
 しかしそんな就職活動はなかなか思うようにいかず生活費にも困りはじめていたのだが、そんなあるときに登録に行った派遣会社はえらく感触のいいところだった。こんなことはあまりないと思うのだが、楽しいといっていいほどにその派遣会社の担当者と会話がはずみ、別れ際には、彼は満面の笑顔で「あなたのような人に会えてよかった。とてもいい時間でした」とまでぼくに言ってくれた。
 これはうまくいく前兆ではないかとかなりいい気分で帰宅し、おそらくその日のうちのことだったと思う。電話がかかってきた。ぼくをいい気分にさせてくれた彼だ。その電話でも彼はやはり感じがよく、そしてそのさわやかな声で朗報を伝えてくれた。採用だ。
 それで手続きやらに関してちょっとした確認事項があったので、いったん電話を切り、あらためてぼくのほうから電話しなおしますということになった。
 五分も経っていなかったと思う。
 約束通り電話をかけ、彼を呼び出してもらった。
 奇妙なことが起きたのはここからだ。
「はい……?」と彼は言った。
「さきほどの話なんですが」
「さきほどと言われますと?」
「さっきの電話ですが」
「電話……」と彼はつぶやいた。「おかけしておりませんが」
「いえ、ついさっきですよ。お話したじゃないですか」
「していませんね」と彼はきっぱり言った。数分前の電話の声とまったく同じ声で。
「え? 採用ということでしたが」とぼくは混乱しつつ言った。
「いえ、そういう話はまだありませんね」と彼はさわやかに答えた。「ありましたらご連絡致しますよ」
 おかしなことを言っているのはそちらのほうだと無理にでも思わせるような言い方だった。
 どういうことなのかまったくわからない。
 明らかに同じ声だった。さきほどの電話と。声質もしゃべりかたも。絶対に同じ人物だ。
 だいいち、ついさきほどかけてきたのは事実で、ほかに間違えようがない。彼と話したからこそ折り返しの電話をかけているのであって、今話しているのも、名前を告げて呼び出してもらったのだから絶対に彼だ。そもそも別人ならまったく話が通じないだろう。
 しかし結局、彼は電話などしていないと言い張ったまま電話を切り、その後、ぼくが彼と話をすることは二度となかった。
 これがあったのはもう数十年前のことだが、いま思い出しても異次元に迷いこんだような妙な気分になる。どういうことなのかはわからないままだ。
 だから想像でしかないのだが、おそらく彼は間違ってぼくのところにかけてきたのだろう。採用の連絡をしたかったのは、ぼくではなく、別の幸運な誰かなのだ。だが間違いに気づかず、そのまま話を進めた。折り返しの電話でやっと気づいたが、面倒はごめんとばかりにとぼけとおした。
 もちろんおかしな話だ。つい数分前にまぎれもなく会話しておいて、その相手に対してとぼけるもなにもない。間違えたと言えばそれですむ話だ。それはそうだし、いったいどういう精神構造をしていればそういうふるまいができるのかいくら考えてもすっきりしないのだが、こうとしか説明がつかないではないか。少なくともなんらかの都合で時空が歪んだと考えるよりは納得ができる。要は、さわやかな声に惑わされてはいけないということなのだろう。

サポートしてええねんで(遠慮しないで!)🥺