短編創作「11/25」

 旅先で映画を観た。
 その内容が思いのほか今の自分と重なって、鈍く感傷的な気持ちを引きずったまま映画館を後にした。
 まっすぐホテルに帰る気にもなれず、そのまま知らない街の初めての夜を迎えた。あてもなく商店街を歩く。思えばこの旅も、そんなふらついた気持ちのまま始まったように思える。映画なんて見るんじゃなかったと少し後悔した。知らない街で知らない映画を観る。そのとりとめのない行為に、どこか自傷的な憧れを抱いてしまったのかもしれない。

 どれくらい歩いただろう。商店街を抜けてからしばらく経つ。国道沿いに面した歩道を歩く。まだそれほど夜も更けていないのに、お店も街灯の数も疎らだった。行き交うヘッドライトの明かりが夜の闇に瞬く。車が通り過ぎると肌寒い空気が舞って、わたしはその度にコートの中で身を縮こまらせた。
 段々と視界に捉える物が少なくなる。今となっては初めて訪れるこの街も、自分が普段過ごしている街並みと大した差を感じられない。夜の闇がもたらすそんな景色に、どこか安堵した。今までのわたしなら、こんな夜に独りで歩いていたら、きっと心細くて一歩も進めない。闇の中に自分自身も同化して、どうしようもなく今が独りなのだと実感してしまうから。

 さすがに足が痛くなってきた。
 途中、ガードレールに腰を預け、片方のヒールを脱いで踵を手で揉む。それから、タクシーを呼ぼうと持っていたハンドバックからスマートフォンを取り出した。
 けれども、電源が入らない。画面には充電がないことを伝えるマークが表示されている。
 途方に暮れた。でも、不思議と嫌な気分ではなかった。夜の道端で街灯の下、連絡手段を失って途方に暮れる自分の図を想像すると、胸の辺りがすっとときめいた。瞬間、それは虚しさに返還されて、また足の疲労として蓄積された。

 ふと反対車線を振り返ると、小さな明かりが目に入った。ヘッドライトの明かりでかき消されてしまいそうなそれが、喫茶店の窓ガラスから漏れる光だと気付くには、数十秒の時間を要した。
 もしかしたらコンセントを借りられるかもしれない。幸い、充電器は持っている。わたしは横断歩道を渡る手順を教わったばかりの子どもみたいに、何度も首を振って左右の安全を確認し、それから道路を横切った。
 窓ガラス越しに店内の様子を伺う。こぢんまりとしているけれど、木材を多用したどこか山小屋を思わせる立派な内装だ。天井からはいくつもの裸電球が吊るされている。あちこちに置かれている観葉植物も緑が鮮やかで、数の割には窮屈な印象を与えない。
 一番目を惹いたのはカウンター内の棚に置かれた大量の小瓶だった。中には茶葉でも入っているのだろうか。

 奥から女性の店員が姿を見せた。歳は四十くらいだろうか。わたしより一回りほど歳上に見える。
 一瞬、目が合ってしまった。彼女は微笑むと、軽く会釈した。なんとなく入らないと申し訳ないように思えてきて、わたしは店の扉を開けた。呼び鈴が小気味よい音で響く。
「いらっしゃいませ」
 店内には誰もいない。落ち着いたピアノのメロディーが寂しげに流れている。閉店時間を確認せずに入ったのはまずかっただろうか。そう思い、表に出ていた看板を確かめるために店の外へと出ようとする。すると、彼女はカウンターの向こうから少し身を乗り出して言った。
「お好きな席へどうぞ」
 結局、うながされるままわたしは店の中へと入った。とりあえず、目についた二人用のテーブル席に腰を下ろす。コートを脱ぎ、空いている方の椅子に置く。そのタイミングを見計らったように、彼女はグラスに入った水を運んできた。
「お決まりになったら声をかけてください」
 そう言って、彼女はカウンターへと戻った。
 ラミネート加工された手作りのメニュー表を眺めながら、わたしは軽く絶望した。メニューの値段が想像していたよりも高い。普段利用するチェーンの喫茶店とは違い、一杯のコーヒーや紅茶に千円近い値段を支払うことに少なからず抵抗があった。自分が半端な気持ちで入店したことに、おこがましい気持ちになる。
 そんなわたしの思いなど伝わるはずもなく、彼女はカウンターの向こうから笑顔でこちらを見つめている。本人に悪気はないのだろうけれど、わずかなプレッシャーを感じつつ、ひとつ唾を飲み込んでから小さく右手を挙げた。「はい」と返事をして彼女はわたしの元へと歩み寄る。メモ帳とボールペンを手に注文を心待ちにしている姿を見て、さらに後ろめたさを感じる。それでも、おそるおそる口を開いた。
「あの、コンセントって、借りられますか」
 途端に彼女の笑顔が疑問を帯びた。
「コンセント、ですか?」
 質問を質問で返されたのでわたしも事情を説明する。
「実は携帯の充電がなくなってしまって、充電器はあるので、もしかしたら充電できるかと思って入ったんです」
 説明をしている途中でなんだか自分が情けなくなり、居たたまれない気持ちになった。
 それでも、彼女はわたしの言葉の意味を咀嚼するように何度も頷く。やがて彼女が答えた。
「カウンターの裏にコンセントがあるので、そこでしたら大丈夫ですよ」
「本当ですか」
「しばらく充電器と携帯電話をお借りしますが、よろしいですか?」
「お願いします」
 わたしはハンドバックからスマートフォンと充電器を取り出し、テーブルの上に置いた。
 短い沈黙が挟まれた。その間お互いに顔を見つめ合ってしまう。やがて、彼女が恭しく口を開いた。
「ご注文は、まだお決まりではないですか」
 そこでわたしははっとした。充電をさせてもらえることが分かって完全に気が緩んでいた。いそいそとメニュー表を手に取り、見たことも聞いたこともない紅茶の名称の中から、おすすめと書かれたまったく知らない紅茶を頼んだ。
「かしこまりました」
 彼女はそう言うと、わたしのスマートフォンと充電器を持ってカウンターの向こうへと戻っていった。
 ひとまず安心する。グラスに入った水を一口含んでぼんやりと店内を見回す。それから、窓ガラス越しに何もない夜の国道を眺める。ときおり、車やバイクが物凄い勢いで走り去る。
 わたしはテーブルの上に突っ伏して、充電が回復するのをじっと待った。

 テーブルの上にメニュー表と一緒に小さなメモ帳が置いてあるのに気が付いた。何の気なしにそれを手に取って中身を開く。そこには、この店を訪れた人たちによるメッセージが書かれていた。日付と共にこの店の感想や、どうしてこの街を訪れたのか、誰と来たかなどが記されていた。よく見ると、どの席にも同じようにメモ帳が置かれていた。
 色々な人が様々な思いを抱いてこの店のテーブルに座っている。そんな当たり前の事実に、どこか悄然とした。家族、恋人、友人、自分自身について。沢山の人の思いがここには込められている。そう思うと、手にしているメモ帳が急に重たく感じられて、記された文字や絵や言葉の意味が、インクの黒色を通して目の奥にじわりと滲んだ。
「来てくださった皆さんがそうやってメッセージを残してくれるんですよ」
 不意に声が降ってきて見上げると、カップとティーポットをお盆に乗せた彼女が傍に立っていた。わたしは鼻をすすり「そうなんですね」と相槌を打つけれど、心ここに在らずといった具合になってしまう。
 彼女は花柄のあしらわれた白い陶器のティーポットとカップをテーブルに置くと、ゆっくりとカップの中に紅茶を注いだ。注がれる音につられて、その琥珀色の螺旋に思わず見入ってしまう。注ぎ終わったティーポットを布製のカバーで覆う。一連の動作にはまったく無駄がなく、いつまでも見ていられる気がした。
「ご旅行ですか?」
 彼女が尋ねる。
「まあ、そんなところです」
「いいですね。特に旅行者でこの店を訪れた方が、よくメッセージを残してくださるんですよ」
「全部読んでるんですか」
「閉店後に一通りすべてのメモには目を通しますよ」
 わたしは口の中で「へえ」と声を漏らした。また一頁、メモ帳を捲る。すると、つい最近の日付でこの店を訪れた女性の言葉が目に留まった。どうやらこの人は、失恋したらしい。
「色んな人がいますよね」
 彼女が言うが、今度は上手く相槌を打てなかった。やがて頁は白紙になる。そこから先にはまだ何も書かれていない。
「よろしければ何か書いていってください。こうしてここに来られたのも、何かの縁でしょうから」
 わたしは小さく、縁という言葉を呟く。
「おいしいと口にしてくださるお客様はいます。良かったと言ってくださる方もいます。反対に、何も言わずに黙って過ごす方も大勢です。でも、そのどれもが同じ意味を持っているわけではなくて、意味合いはお客様ごとで大きく異なります。私たちの役目は、その真意を汲み取ることにあると思うんです。この場所が、皆さまにとってどんな場所であり続けるべきなのかを考えるために」
 わたしは黙って彼女の話を聞いていた。注がれた紅茶からは、白く細い湯気がわたしと彼女を挟んで立ち上る。
「感想を抱くのは簡単です。でもそれを口にするのは中々に難しい。だからその中間、こうしてメッセージとして綴っていただくのが一番だと思ったんです」
 差し支えなければですが、と最後に彼女は付け加え、カウンターへと戻った。
 しばらくの間、わたしは硬直していた。ただじっと、何も考えずにカップに注がれた琥珀色の紅茶を見つめていた。あてもなく始まった旅だけれど、ここがまるで世界の果てに近い場所のように思えた。紅茶の表面は、いつか見た夕暮れ時の海を思い起こさせた。波打ち際に独りで立った時ほど、悲しい気持ちになる瞬間はない。
 顔を上げ、またひとつ鼻をすする。
 テーブルの端に置かれていたボールペンを手に取り、メモ帳にペンを走らせた。最後に今日の日付を記す。
 紅茶を一口含む。温かい。内側にそっと流れ落ち、一番深いところから体温をわずかに上昇させる。
 そのぬくもりは、どこか人肌に包まれている心地に似ていた。

「おいしかったです」
 会計の際、わたしは自然とそう口にしていた。
「ありがとうございます」
 彼女は笑顔で返してくれた。
 預けていたスマートフォンと充電器を受け取る。お礼を言って、深くお辞儀する。
 店を出ると、頬を撫でる風がさっきより冷たさを孕んでいた。寒いけれど、そこまでではない。体の奥底には、あの紅茶の温かさがまだやんわりと残っている。
 少し乱れた髪を整えながら、そろそろ切ろうかな、などとぼんやり思った。
 タクシーを呼ぼうとスマートフォンを見る。充電は十分にある。けれども、なんとなく歩きたい気分だった。
 わたしはスマートフォンをコートのポケットにしまい、そのまま夜の街を引き返した。

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