短編創作「いつも考えていること」

 最寄り駅からわたしが通っている高校までの道のりには、マンションがいくつか建っていた。薄く切って平らに伸ばしたみたいに小綺麗な住宅街で、マンションはどれも似通った高さで待ち構えている。この辺りには割かし裕福な部類の人たちが暮らしているので、建ち並ぶ家々と同じくマンションも、配色の少ない整然としたフォルムでたたずんでいる。
 ときおり、その白さを汚してやりたくなった。特に、駅を出て南に続く住宅街の道を進み、ちょうど正面に見えてくるひと際高い真っ白なマンションを見上げると、より強くその衝動にかられた。
 でも現実に考えてそんなことはできるはずもない。ペンキの臭いは嫌いだし、授業で使う絵具ではあまりにも足りない。そもそも、わたしにそんな力はない。他の生徒と足並みをそろえて学校に向かうので精いっぱいだった。それに、もし何色に染めることができたとしても、「おしゃれだね」という感想で済まされてしまいそうだ。わたしにとってその答えは、何も変わっていないと同義だった。余計に惨めな気持ちになるだけだった。
 そしていつしか、わたしは自分で成し遂げることのできないその願望を、想像の中で成し遂げることを思いついた。
 頭の中でこの住宅街がどんどんカラフルに染め上げられていく光景を夢想した。最初は登下校中、そのうち授業中も考えるようになり、気付けば家に帰って布団の中に潜り込んでからも想像するようになっていた。赤や紺、オレンジや黄色に染まる住宅街に胸が高鳴った。けれども、あの真っ白なマンションだけは最後まで残しておいた。お楽しみは、最後までとっておく方が良いに決まっている。わたしはそう自分に言い聞かせて、今日も浅い眠りについた。

 わたしはよく物を失くしていた、もっと正確に言うなら、誰かに盗まれていた。
 犯人は分かっている。同じクラスの○○さんだ。どういう意図があってわたしの物を盗むのか、見当がつかなかった。物を盗むだけじゃない。悪意の込められた陰口やあからさまに見下す態度、そして何故か、わたしを見てはいつも粘っこくて嫌味な笑い方をする。
 一度、どうしてこんなことをするのかと尋ねてみたことがある。すると、彼女はこう答えた。
「何のこと? 人を疑うなんて、本当に根暗ね」
 どうかしているんじゃないか、といった表情を浮かべて答えた○○さんを見て、確信した。そして、一つの仮説を立てて、あることを実行しようと誓った。
 彼女のために、わたしはどうにかなってしまおう。

 普段は見上げているはずのマンションから見る景色は、ほとんど真っ暗だった。もう夜も更けた頃だから仕方のないことではあったけれど、どうせなら、黒ではなく昼間の真っ白な光景が広がる住宅街を前にしたかった。
 ○○さんがこのマンションに住んでいることは前から知っていた。あとは彼女を尾行して、部屋の番号を知り、マンションに侵入するだけ。それは思いのほか単純で簡単だった。
 風が強い。もうすぐ冬が来るせいか、寒さで体が強張る。屋上のへりに立ち、両方の踵を合わせて背筋を伸ばした。目を閉じて、長くもなく短くもない呼吸をしてみる。しかし、いよいよといったところでわたしの体は動きを止めた。反対に、心臓の鼓動がこれまで生きてきた中でもっとも早くなる。指先の感覚さえままならない。
 その時、わたしは初めて、恐怖が具現化することを知った。
 生きながら死んでいるようだった。吹きつける冷たい風を全身で浴びながらも、体はちっとも震えない。死にたくない。その言葉で頭の中を覆い尽くされた瞬間、まるで発作を起こしたみたいに全身がわなないた。それから、わたしははじかれたように後ずさり、勢いよく尻もちをついてしまう。そして、静かに涙が頬を伝った。指先に水滴が触れて、涙が温かいものだと改めて気が付いた。
 わたしには覚悟が足りなかった。肝心なところまできて、わたしの決断には文字通り最後の一押しが足りなかった。結局、この小さな抵抗さえも、想像の中の自分で補うしかなかった。頭の中のもう一人の自分は、この日を境に、来る日も来る日も飛び降りを繰り返している。何度も何度も、地面に叩きつけられて、跳ね返った血が真っ白なこのマンションの外壁を赤く染めた。
 わたしは今日も、その光景を思い描きながら学校へと向かっている。朝、登校して席に着いて、机の中に手を入れて、その中に詰め込まれたプリントやその他のゴミを漁りながら、教室の窓際にいる○○さんたちグループの視線に気が付く。彼女と目が合った。彼女は眉をひそめると、こちらに向かって歩き出す。目の前に立って、わたしを見下ろすとこう言った。
「手、汚れてるわよ。さっさと拭いたら?」
 そう言われて自分の手に視線を落とす。指先が真っ赤に染まっていた。机の中には絵具がぶちまけられていた。しばらく、指先に付着した赤い液体を眺める。わたしの白い皮膚が、赤い色で染まっている。それは妄想でもなんでもない。あまりに現実的過ぎて、それ故に現実を逸脱していた。心臓の鼓動がゆっくりと大きくなる。得体のしれない高揚感で、体は熱くなり、赤い液体は熱を帯びた。
 瞬間、わたしの中で何か細い線のようなものが切れた音がする。彼女の顔を見上げる。その姿は、あの真っ白なマンションを連想させた。
 そして、再び確信した。一つの仮説を立てて、あることを実行しようと誓った。
 わたしのために、彼女をどうにかしてしまおう。

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