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スティグマの毒に抗うために――「スティグマ化もロマン化もしない」と決めた28年前の夜について

4月21日から23日にかけてBuzzFeed Newsに掲載された、岩永直子記者による入江杏さんインタビュー全3回を読んだ。当事者が語ることと、同時に、内なる他者を含むさまざまな他者によって、眼差され、語られることの狭間で、入江さんがいかに誠実に丁寧に思考し、内にこもらずに外へと活動を広げてきたかが伝わる内容で、その途方もない歩みを思って胸が詰まった。

入江さんから贈られた言葉

実は入江さんは、前回のnoteと大きく重なる内容を、2016年に私自身が企画に携わった東京大学UTCPのシンポジウム「障害とアートの現在――異なりをともに生きる」で発表した時、誰よりもヴィヴィッドに反応してくれた人だった。その時に入江さんが書いてくれた文章は忘れられない。

「先日、東大のシンポジウムに参加した時のこと。当事者研究に携わる若手研究者の方が、ご自身のトラウマ体験への向き合いをこう表現されていたのです。『受け取る名づけから生み出す名づけへ』受動から能動に転換される時の葛藤を彼女は如実に伝えていました。ある意味で頑なに自分のトラウマ体験を『ロマン化』も『スティグマ化』もしない、と決めてしまったがために、いかに彼女が過去現在未来に対する見通しを失い、立ち往生したか、を語ったのです。勿論、それだけでなく、そこから解凍されて拓かれる新たな障がいと関わるアートの地平への語りは、清冽な泉が湧き出るようでした。『障害当事者』の表現が頑張る姿として一方的に消費されたり、悲劇の記号として利用されることへのNOを示すその姿は、たおやかにも毅然としていました。聴きながら、ひとはどうしても自分の体験を自分なりの物語に落とし込まなければ生きていけない・・・今更のように、妹の事件への私の語りには、沈黙のまま逝った母への思いが底流にあったのだと、気づかされたのです」(『Begleiten』39号、2016年11月5日

私は若手でも研究者でもないのだが、もちろん心に沁みたのはそこではなく、入江さんが私の言葉を正面から受けとめてくれ、私が自覚していなかったことまで鮮やかに浮かび上がらせてくれたことだった。

「過去現在未来に対する見通しを失い、立ち往生した」

この言葉は、私の心に深く突き刺さった。私は、自分が「立ち往生」していたとは思っていなかった。しかし、その発表のなかで私自身が語っていた通り、私の時間は弟の自死(注1)以降、彼とその死に関する部分だけ完全に止まっていた。何の感情も伴わずに「弟がいたけど、自殺で死にました」と直截に言うことしかできなかった頃は、私の思考も感情も、何一つ変わらなかった。繰り返し見る悪夢も、プラットフォームで感じる恐怖も、同じままだった。そうしたことが変わり始めたのは、感情を伴わないまでも、少しずつ別の言葉で語り始め、かなりの年月が経ってからだった。私は凍った動かない時間のなかにいて、それが溶け、緩み、動き出すまでに実に20年以上もの歳月がかかったのだ。まさに「立ち往生」でなくて何だろう?

だが、それでもなお私のなかには、「ひとはどうしても自分の体験を自分なりの物語に落とし込まなければ生きていけない」という言葉に素直に頷けない自分がいた。それは密かで頑なな拒絶で、胸の奥のほうにぎゅっと固まった黒く重い鉄の塊があり、「決してここを動くことはない」とその存在を主張しているようだった。

弟の死の直後からそれまで(と期限を区切っていいのかはよくわからない。なぜならいまでもこれから書くことは私のなかに強く残っているから)、私は弟の死に関してあらゆる意味づけを拒んできた(これはあとで書くスティグマの問題とも深く結びついている)。とくに弟の死があったからこそ、いまの自分があるというような意味づけを拒んできた(実際には、弟の死があったからこそ、考えていることがあり、つながっている人がいて、やっていることがある。弟の死がなかったらいまの自分はないし、そもそもこういう文章を書いてもいない。だからひどく矛盾している)。背景には、他者の死を生きている自分の意味に変えたくないという強い思いがあり、それは超えてはならない一線であるという自戒があった。

また私は、表面上は粛々と参列してきたが、あらゆる宗教的行事を内心では激しく拒んできた(父の実家が禅宗の寺院で、祖父、おじ、いとこが僧侶であるのにもかかわらず、である)。そこには、圧倒的な不条理を不条理のままにしておきたい、超越的な存在や物語によって意味づけしたくない、不条理を不条理のままに受けとめることが、肉体が一瞬のうちに破壊されるという想像を絶する痛みとともに死んだ弟に対する、自分の責務だというような思いがあった。

要するに私は、世俗的にも宗教的にも弟の死の意味づけを拒み、物語化を退け、剥き出しの不条理と不条理のままに向き合いたいと足掻き続けてきた。そこに入江さんの言葉が飛び込んできた。しかも、私自身が表現すること、物語ることの意味の大きさを述べた直後だった。「ひとはどうしても自分の体験を自分なりの物語に落とし込まなければ生きていけない」というのは、本当にその通りだった。私も、体験を通して、わかってはいた。しかし、一方で、拒絶する自分がいた。以来、この矛盾を考えることは、私の大きな課題になった。

「スティグマ化もロマン化もしない」決意の背後にあったもの

そうした経緯があったので、スティグマの問題を主題としたBuzzFeed Newsの入江杏さんインタビュー第1回を読んだ時、思考は自然と「トラウマ体験を『ロマン化』も『スティグマ化』もしない、と決めてしまったがために、(略)過去現在未来に対する見通しを失い、立ち往生した」という入江さんの言葉に戻っていった。

そして考えていて、改めてはっきりと自覚した。

弟が自死した1991年4月27日の夜に、私が一睡もしないで考えていて決意した三つのことのうち、第一が「自殺や精神疾患をstigmatizeもromanticizeもしない。差別も聖別もしない。だから、精神分裂病と診断されていたことも含め、決して隠さない」(注2)だったのは、なぜなのか? 

当時の私は、スティグマに関する知識などまるで持ってはいなかった。しかし、スティグマがどれほど人の生を蝕むかを、突然の死別というある意味、極限まで追い詰められた状況のもと、研ぎ澄まされた感覚によって、直観したのだろう。それを避けるために、必死に、本当に必死に、スティグマ化と、その裏返しとしてのロマン化が、自分の心身に忍び込まないよう、その回路自体を完全に遮断しようとしたのではないだろうか。スティグマ化とロマン化の毒が全身に回る前に、その可能性自体を根こそぎ排除しようと、自身の周りに、その時の私にとって「鉄壁の壁」と思われたものを建てたのだ。

その「鉄壁の壁」にどうしても必要だったのは、三つの決意のうちの三番目、「90歳で老衰で死ぬのも、24歳で自殺で死ぬのも、死という意味では等価であると思う」だった。この「思う」は、「思うことにする」とでもいうような積極的な意志の表明である。

自死をスティグマ化もロマン化もしないためには、自死は特別なものであってはならなかった。だから、あらゆる死は、そこまで生きていた命が断ち切られるという意味でまったく等価である、と脳内で繰り返し考えた。人が死ぬのは、当たり前でありふれたことである。弟の死も、有史以前から何十万年と、世界中で絶えず繰り返されてきた無数の死の一つに過ぎない。だから、そこにどのような特別な意味も付したくない。死は、ただの死だ。そして、日常に生起する無数の平板な出来事の一つに過ぎない。

そこまで徹底的に意味を剥ぎ取ろうとする必要はなかったのでは、と思われるかもしれない。当時は、自死に対するスティグマも、精神疾患に対するスティグマも、いまよりずっと強かった時代である。また、精神疾患に罹患したり、自死で亡くなったりした文学者や芸術家が、「狂気」や「苦悩」や「悲劇」といった言葉遣いとともに語られることも、まだ多かった。そのどちらの罠をも逃れるために、まだ若かった私が必死に考え出した唯一の解決策であり、抜け道が、弟が精神分裂病と診断されて20日足らずで自死したことを「なんでもないことと見なす」だったのだ。

ただ、その時の私には大切なことがわかっていなかった。それは、「弟の死も、有史以前から何十万年と、世界中で絶えず繰り返されてきた無数の死の一つに過ぎない」ということと、「私にとっては、たった一人の大切な弟の死であり、とてつもなく大きな出来事だった。そして何より弟にとっては、一切の代わりのない唯一無二の自分の死であり、一回性の出来事だった」ということが、両立し得るということである。考えが浅く、愚かだったと言うべきだろうか。

一つ言えるのは、私は私なりに必死だった、ということである。その決意が、その後20年以上も自分を縛ることになったとしても、絶対に受け容れ難いと思ったことに抗うために、自分にできる最大限のことを考え、心に決め、実行した。それが半分、まったく正しくて、半分、徹底的に間違っていたとしても、よくがんばったと、多少は人生経験を積んだいまの私から言ってやりたい。

§ § §

最後に冒頭の写真について。この写真は、私がアイコンに使っている写真と同じく、2013年に青山ゼロセンターで齋藤陽道さんの「せかいさがし」展が開かれた時に、イベント「チャンネル」で撮ってもらったものです。何枚も撮ったカットのうち、齋藤さんが選んでプリントしてくれたのがこの1枚でした。心のなかにある深い井戸の傍らに跪いて、もう見ることのできない弟を思っている時の自分の姿のようで(そんなことは話したこともなかったのに、なぜこのイメージを齋藤さんはとらえることができただろう?ととても不思議でした)、私にとっても一番好きな一枚です。

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(注1)私は現在は、考えたうえに「自殺」ではなく「自死」という言葉を使っているが(その理由と経緯は以前にツイッターに書いたが、かなり前のことなので、別途またnoteとして記したい)、1991年当時は「自殺」を使っていた。したがって、当時の言葉の引用では「自殺」、その他については「自死」を用いる。

(注2)「stigmatize/romanticize」と英単語になっているのは、その夜、その部分だけ英語を使って考えていたからである。「stigmatize/romanticize」「差別/聖別」と韻を踏むことにこだわっていたのをはっきりと憶えているが、それがなぜなのかは改めて考察したい。「精神分裂病」は、「統合失調症」の1991年当時の呼称。

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