美ヶ原

自己紹介(2020年1月21日時点)

児玉光史(こだまみつし) 1979年2月生まれ(現在39歳)株式会社地元カンパニーの代表取締役。家族:妻、娘(4歳)、息子(2歳)、もうすぐ3人め、バツイチ。2013年に長野県上田市へUターン(その際に離婚、Uターン後再婚)。オフィスも美ヶ原の麓(上田駅から徒歩ではいけない。車で45分ぐらい、、、、)にあります。趣味はロードバイク。美ヶ原をロードバイクで登るのが好きです。

幼少期
とにかく家の周りに何もなく、近所に友達もいなくて圧倒的に暇であり退屈だった。テレビも観る時間を制限されているし、そもそも観たいテレビ(アニメなど)はやっていなかった。小学校から帰ってから夕食まで一人の時間が長かった(ような気がしている)。小学校ではクラスの中心人物ということはなく、まったくもって中途半端なポジションでクラスの人気者への憧れもあったりした。少年野球チームにも所属していたが、レギュラーと補欠を行ったり来たりしていて、誰からも期待されていないような選手だった。打てないし守れないしという感じ。歯並びが悪く歯の矯正をしていた。歯の矯正は嫌だったなぁ。痛いしなんかかっこ悪いし。こんな感じで小学校時代はあんまりいい思い出はない。。。図工の時間に書いた絵が入選したことぐらいだろうか、、、

中学校
中学校ぐらいから勉強やテストがクラス内で注目されはじめ、勉強ができたので、何となくクラスにいていいのかもと思うようになってきた。野球は続けていたが、中学高校でも補欠とレギュラーのあいだを彷徨う選手であった。打てないし守れないし非力だった。この時期でのスポーツは体の発育が要素としては大きいが、まったく発育が悪く華奢で非力だった。早生まれには残酷な時期だ。たまたま試合で打ったことがあったが、監督が「華奢な児玉でも打ったんだぞ!」みたいにチームを鼓舞したんだが、複雑な気持ちで聞いていた。また、この時期に発揮したのは正義感で、自転車通学だったが校則で決まっていたヘルメットはかたくなに被っていたり、たばこを吸う不良にしつこくたばこを止めるように言っていた。しかし、たばこを吸う不良とは一周回って仲が良かった。不良と遊ぶために不良になる必要はなく、自分なりに一本筋が通っていればいいっぽいというのを薄々感じ始めていた。思春期なのに全くもてなかった。残酷だ。

高校に入学して初めて大学に行くことになりそうだと知った。高校がそういう雰囲気だった。暮らしていたところが田舎すぎて、大学を見たこともなければ自分とは関係あるものと思ったことはなかった。両親も大学に行っていないので、家庭で大学の話題が出てきたことは皆無だった。田舎は情報量が圧倒的に少ないから将来を描きにくい。しかしそのことを当の本人は気づくすべがない。残酷だ。野球は続けていたが高校でも基本的に補欠組だった。同期のチームメイトは揃いも揃ってみんなうまかった。それでも甲子園には全然届かなかった。最後の夏の大会だけスタメンで試合に出ることができて、野球って面白いんだなと初めて実感できた。だから大学でもやろうと思った。燃え尽きていなかったというより高校の最後に燃え始めた。高校時代は、野球部であることや、野球部でありながらも勉強ができるということで、学校に居場所的なものはあった。小学校や中学校よりも学校に居てもいいという感じはあった。東大を目指したんだが、東大を目指すこと自体が学年内で話題になってしまった。一浪の末、何とか合格。しかし高校時代も彼女はいなかった。

大学(農学部)
東大では硬式野球部に所属していて、東京六大学野球で優勝しようとがんばっていましたが、4年間で8勝79敗でした。。。。個人的にはホームランを通算5本打っていて、シーズンでホームラン王になったこともあり、全くの過去の栄光です。しかし、今考えると野球に4年間注ぐという時間の使い方は本当に良かったのかと思ったりもする。プログラミングや研究に全ての時間を注ぐという選択もあったはずなのに候補にもあがらなかった。この頃は将来やりたいことは全くなかった。

大学以降
新卒で電通国際情報サービス(ISID)に4年間お世話になり、システムのセールスをやっていました。その後、東京で実家のアスパラの手売りをしたりして、2012年に渋谷にて株式会社地元カンパニーを設立し、2013年から渋谷と長野県上田市(地元)の2拠点にオフィスを構え、2016年に完全にオフィスを上田に一本化。

自分のDNAは農家。実家がアスパラ農家(私が小さい頃は養豚もやっていた)ということもあり、事業の目的は、”地方でつくり続けられる”ようにすること。日本の胃袋が小さくなるので、いまだ地方のつくりてが接続できていない市場を開拓する。事業は地方でつくっている人ファーストに設計しています。やりたいことの詳細この記事を参照ください。

地元カンパニーの事業は、「地域産品のカタログギフト」。実家のアスパラ農家を継いで事業を拡大する手もありましたが、山あいの村で耕作面積も限られているし、新卒で法人向けセールスをしていたこともあり、”売るところ”をメインにしようと思いました。日本の胃袋は小さくなっているので、食べ物の財布ではなく、なんか別の財布をこじ開けようと地域の産品をラインナップするカタログギフトをやり始めました。自分の結婚式の引き出物で、実家のアスパラや友人の酒や米などを選べるカタログギフトをつくったことがきっかけではあります。

がっちりマンデーにも星のリゾートの星野さんの紹介で取り上げていただきました。この頃はまだ事業規模も小さかったですね、、、

カタログギフトと商品券で市場としては年間1.2兆円。市場規模としてはけっこうでかいことは後で調べてわかり、この市場を地方の産品で開拓しようと躍起になっています。

会社は現在、6年半。昨年度、一昨年度の売り上げは5000万ぐらいで、今年度は1億円いくかいかないか。売り上げは伸びていますが、事業としてはまだまだ・・・・です。。。出資は受けておらず、融資を受けつつ自己資本でやりくりしています。ただ、自己資本にこだわっているわけではありません。長く続く会社にしたいので、自分で株を持たないほうがいいと判断する時も来るだろうと考えています。

メンバーは現在12名(フルタイム、時短、業務委託合わせて)。受注はWEBからの問い合わせきっかけがほとんどです。営業的には今後もWEBマーケティングに注力していきたいなと思っています。カタログギフトの出荷や商品の出荷などは、自社で開発したシステムを活用することで、効率的にできる仕組みになっています。会社としての事業モデルは、大枠確立できたと思っているので、積極的に成長させていきたいフェーズです。

カタログギフト事業は業務システムに依存しています。商品受け取りコードの発行や、割り当て、出荷情報や、配送管理などなど。会社設立当初からそのシステムを自社で開発してきましたが、そのシステム自体の外販も始めています。システムだけではなく、倉庫などを保有し、カタログギフトの出荷代行などサービスも合わせて請け負ったりしています。都心部の会社とどう渡り合っていくかを考えると、土地の取得のしやすさなどは優位性があるなぁと思ったりします。

これからの会社の中での私の役割は、「広報活動」「仲間を増やすこと」「事業資金を集めること」ですが、中でも「広報活動」です。仲間を増やすためにも資金を集めることにもつながるので。全国各地に赴き、会社のことを発信していく機会を頂戴できれば幸いです。

今では事業としてはやっていないですが、、、
2017年までUターンの促進事業もやっていました。東京に出てきて働いているものの、地元に戻りたいけどなぁ、、、と思っている人にUターンしてもらう事業です。具体的には、地元企業の採用支援となります。2013年には、渋谷ヒカリエで長野県出身の若者700人あまりが集まる「信州若者1000人会議」なども開催しました。こちらの事業もやりがいがありやりたかったんですが、限られたリソースをどこに投入するかなど悩んだ結果事業としては撤退。カタログギフト事業に集中することにしました。ここら辺の活動では取材などもしていただきました。

これからもカタログギフトの事業をどんどん成長させて、いろいろチャレンジしたいなぁと思っていますし、地域の課題を解決しつづける公器として、地元カンパニーが脈々と続いていくようにできる限りのことはやりたいなぁと思っています。

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