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「これは、こうあるべき」という空気感が苦手な方へ

なんとなく、ふと思ったことがあり、せっかくなのでnoteに残しておこうと思い、記憶の整理がてら書いています。

前から何となく思っていて、モヤモヤしたまま解決していなかった問題(というか事象)があって、ちょっと自分の中で答えらしきものが出そうだったので、思考を整理しつつ書いてみます。

その問題とは、『「これは、こうあるべき」という空気感が苦手』という問題です。

イメージしづらいかもなので、少し具体例を挙げてみますね。例えば、下記のような感じです。

・電車やバスでは"常に"静かにしなければならない
・エスカレーターは"常に"左側(もしくは右側)によらなければならない
・会社や学校には"常に"スーツや制服で行かなければならない

多くの人は、電車やバスで静かにすることや、エスカレーターで固定の位置に乗ること自体は、それほど強い苦痛はないと思います。僕もそれは同じです。

問題は、ここでいう「常に」という部分です。

多くの人は、こういったことを苦手と感じるのかわからないですが、僕にとっては、苦手な空気感だなと感じていました。

誰でも会話をしている中で、ふいに大きな声を出してしまうことがありますし、子どもが突然大声で泣くこともあります。ついエスカレーターで逆側に立ってしまうこともありますし、会社にいくときに、ネクタイを忘れるときだってあります。

要するに、ふとしたときに起きるだけなのですが、これを許さないような空気感、うっかりしてしまった人を必要以上に責めてしまう空気感が苦手という感じです。

「こうしなければならない」とは

ちなみに、先ほどの具体例は2つに大きく分けることが出来て、

・電車やバスでは静かにしなければならない
・エスカレーターは左側(もしくは右側)によらなければならない
・会社や学校にはスーツや制服で行かなければならない

といった感じに分かれるかなと思います。前者はマナーに関する話で、後者は規則に関する話です。

こう考えてみると、後者の方は「規則だから守るのは当たり前だ」と思う人も多いと思いますが、では、なぜ「規則だから守るのは当たり前」なのでしょうか。

ここに対する一般的な答えは、こうです。

規則は、組織に存在する。組織は全体として上手く機能させるためには「決まりごと」を用意した方が都合が良い。それは秩序を保つために便利だから。よって、組織に属するなら、規則を守ることを強いられる。

こういった感じです。

つまり、組織を上手く回すために、「こうしようと決めたこと」が規則なわけですよね。

ちなみに、マナーに関しては、こういった「決めごと」をせずに暗黙のルールとして出来上がったものという理解です。マナーってそういったものですよね。特にこうしようと決めたわけではないけれど、お互いの心遣いから発生してきた文化のようなものかなと思っています。

そして、分割はしてみたけれど、共通点としては、「上手く生きていくために出来上がったルール」といったところかなと思います。

ちなみに、これから書いていく内容は、こういったルールやマナーを守れない人を排除しようという「空気感」が苦手という話です。

こうしなければならない「空気感」とは

少し具体例を挙げてみましょう。

ある小学校にAくんとBくんが通っています。小学校のルールとして、「廊下を走ってはいけない」というルールがあります。そのことはAくんもBくんもよく先生から聞かされています。

ある日、Aくんは忘れ物をとりにいくために急いでいて、間に合わないと思い、つい廊下を走ってしまいました。そして、Bくんはそれを目撃しました。

それを見たBくんはAくんに対して、「廊下を走っちゃいけないんだ!廊下を走っちゃいけないんだ!」とひたすらに責めました。

それ以降はBくんはそれが怖くなり、学校に行きづらくなりました。

こういった場合、だれが悪いと思いますか?

一見するとBくんは良いことをしているように見えます。Aくんが誤ったことをしているのでそこを注意しています。注意は問題なく、むしろ良いことです。

しかし、これが過剰になると、どうでしょう。

ある生徒が少し走ってしまっただけで、それを見かける度にひたすら責められてしまうような状態です。もちろん、走ってはいけないというルールがあるので、走ること自体はいけないのですが、それを責め過ぎるのはどうでしょう。

最近は似たような事例をネットとかでよく見ます。

最近起きた例でいうと、メンタリストDaiGoさんがホームレスに関する発言をして炎上しましたよね。

他にもエンジニア界隈のTwitterだと下記のようなパターンをよく見かけます。

ある人が「こうしたコードを書くと便利だよ」とツイートすると、「これはおかしい。正解はこう。こうしなければならない。このツイートは間違いだ」といったリプや引用リツイートをされるというパターンです。

エンジニアのツイートの例で言えば、「誤ったツイートをした人がいて、それを注意する人がいる」という形です。注意する人がいるおかげで、誤った情報は正されるので、何もおかしいところはないです。

ただ、注意する人が過剰にいるとどうでしょう。

今回の例でいうと、「こうすると便利だよ」とツイートした人は、ある意味で情報提供をしたわけです。コードが誤っていたのは、たしかに良くないですが、ツイートがなければ、そもそも、そういった便利な情報を知ることが出来なかった人もいるわけです。

そうなったときに、過剰に責められる環境は、果たしてどうですかね。

苦手に感じてしまう原因

最近思うのは、「〜しなければならない」に囲まれた生活が「イライラ棒」みたいな生活だなと思っていて、これが苦手なんだなと、ふと思いました。

(イライラ棒がわからない人は「イライラ棒」で検索すると出てくると思います。触れるとビリビリしながらゴールを目指すアレです)

おそらく、常に批判に晒されるという環境が苦手なんだなという感じです。

ただ、これに気づいたときに思ったこととして、正解の解決策とかって多分ないんですよね。批判する人は良いことだと思ってやっていて、それが正義だと思っているはずなので。

というわけで、今のところ自分なりの考えとしては、

行動する人が主人公

これが良いかなと思います。

実際のところ、批判する人は消えないですし、何かミスをしたときに批判されるという環境は、そう簡単にはなくならないです。

ただ、1つだけ言えることとしては、「自分の行動の主導権は自分」です。

批判してくる人がどれだけのプロフェッショナルであったとしても、自分の行動に関して一番知っているのは自分ですよね。

自分:自分の行動の決定権を持つ
批判者:部分的にしか関われない

基本的に、批判者は相手のすべての事情は把握できないです。

どんなにプロフェッショナルであったとしても、その人の中に入り込まない限り、全ての状況を知ることは出来ないですよね。

なので、行動する側の自分としては、批判者の意見を取り入れるのも良いですし、一部だけ取り入れるのも良いですし、全く無視をするというのでも良いわけです。

回転寿司でも全部の寿司を取る必要はなく、腐った寿司は見送っても良いわけです。

何か行動をするってすごく大変なんですよね。

僕自身も批判コメントも何度かくらったことがありますが、最近は上記のような考えでミュートに落とし込むようにしています。

自分はこういう理由でこうしている。ミスったところは次に注意する。

これだけ気をつけていればよく、必要以上に自分を責める必要はないかなと思ったりです。

というわけで、長くなりましたが以上です!

それでは、また!

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