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もっと深く「考える」をしたい。

両親の問診時間を読む、最後の日。


2年以上かけて、読み続けた「両親の問診時間」がこの日ついに終わりました。


夫婦ということ、母であること、父であること、シングルマザーであること、こどもたちの育みのこと。
家族の営みそのものから、ここで私たちは自分自身で考え、立つことを学んできました。


一言では言えない中で、言葉にしてくれた感想の中には、


「深いところで、わくわくする、何かが動き出すおもしろさがあった。」

「自分が一体何とアイデンティファイするのか、これから日々の生活の中で考えていきたい。」

「この読書会で、深く考える方法を知らなかったことに、気づいた。『私とは何者か』、考えもしなかった。新しい感覚に出会った。今までの考えは考えじゃない、もっと深いところでつかみとるような考えというものを、これからも考えていきたい。」


ともに学んできた参加者のことばは、自分のことのように胸に響きます。






「考える」って本当一体なんなのでしょう。



私たち人間は、常に様々な種類の考えを生活の中で巡らしています。

でも、その考えはほっておいたら簡単に破壊的な考え、否定的な考えに流されてゆく。どうやって建設的な考えに立て直していったらよいのだろうか。


建設的な考えこそ、私たちに力を与えてくれます。


それには「体」、「こころ」の安らかさがまずもって保たれなくてはならないというのが前回話されました。

「体」と「こころ」の安らかさが保たれた時、「精神」の力が考えるはたらきに健やかさを持って注がれます。


そう、考える力は「精神」からやってきます。


「精神」とは何か。これも一つの問いですが、ここでは世の法則、大きな世のことごとと言っています。もっともっと、いろんな言い方ができると思いますが。


その「精神」というものは、私たちを一生涯守ってくれるものであり、それを私たちは信頼し、ともに私のうちに在る必要があるのです。


「精神」と「考える力」、難しいです。


まだまだわからないところがいっぱいです。




「善きこと」に傾きすぎたら「悪しきこと」になる


このことばがとても心に残っています。

建設的な考えも、破壊的な考えも、すべての人間の中に存在します。そのどちらかに傾くと、バランスが崩れます。つい、破壊的な考えを持ってはいけない、無くさなくては、と、きっと誰もが自分を責めたり、「善きこと」だけを目指したりしがちです。

そうではなくて、建設的な考えも破壊的な考えも自分の中に共に「ある」ということを「みとめる」。

外にある善も悪も

私の中にある善も悪も   あるということを「みとめる」。


私の「考えること」、「感じていること」、「欲していること」を、改めて「みる」こと、なんの判断も挟まずに「みる」ことは、私とそれらの考えの間に距離をつくります。

そこにこそ、「私を愛する」「人を愛する」一歩がある。


それには「練習」が必要であるということ。


5つの「みる」練習を 最後に学びました。


それを続けていくこと、意識して生きていくことを通して、私たちはまた「問い」を持ち、「考え」、「バランス」をとりながら成長していくのだと思いました。




「体」、「こころ」、「精神」の 

その都度その都度「私」が、安らかさを保ちつつ穏やかに立つ場所はどこなのか。バランスが取れている場所はどこなのか。

そこに立っている時にこそ、それぞれの力の源から「私」にいつも自分を立て直す「力」が注がれていくのだと思いました。



最後に、

私たちは、この読書会で、
ゆっくり時間をかけて

人間の「考える力」を見ることを学んできました。


なぜなら、

私たちがどんな風に「考えて生きていく」かということが、

人間の一人ひとりの人生、
また、子どもたちの未来、
この地球の未来に、

大きく大きく働きかけることだからです。


どんな人生のささいな1場面であれ、
心が立ち行かなくなったとき、
足を止めて、自分の「考え」を「みて」距離を置く方法を知っていること。

そこに、昨日と違う「考え」が生まれます。

そこに、私を人を「慈しむ」可能性を見出します。

そういう、「練習」があるのだと、私は知りました。


「考える」は難しいのではなくて、

「考える」は「生きる」です。

どう生きるかは「どう考えるか」なのです。


ありがとうございました。





文:momo


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