mittsko

Buddhi Prakash Nota  近藤光博のノート

mittsko

Buddhi Prakash Nota  近藤光博のノート

最近の記事

“ポスト植民地主義的な宗教研究” は、初学者向け入門書のなかで、こんなにも簡潔明瞭に解説されちゃってるんですね。喜ばしいことです

Anne M. Blackburn, "The text and the world." In: Robert A. Orsi (ed.), The Cambridge Companion to Religious Studies, Cambridge University Press, 2011, pp. 151-67. ちょいと長めの前置きから。 アン・M・ブラックバーン氏のこの論文が探求するのは、「宗教上の帰属とつながっているテクストの社会的な位置どり」です(163

    • 西欧に発し、いまやすっかりグローバル化した宗教概念と宗教研究が、歴史のなかでどう構成されてきたか。そして、その構成ゆえにどのような注意がいま求められているか

      かなりコンパクトにまとまった文章がありましたので、部分訳をしてみました。コンパクトすぎるぐらいで、専門外の方には、これだけ読んでもなかなか分かりづらいと思いますが、ご参考までに。 ========== Robert A. Orsi, "Introduction." In: Orsi (ed.), The Cambridge Companion to Religious Studies, Cambridge University Press, 2012, p. 1-13.

      • オットーの「聖なるもの」を再評価し、今こそ使えるものへとなんとか展開させようとする試み

        Robert A. Orsi, "The problem of the holy," in Orsi (ed.), The Cambridge Companion to Religious Studies, Cambridge University Press, 2011, pp. 84-105. <オットーの「聖なるもの」 要点> [ルドルフ・オットー『聖なるもの』によれば]聖なるものは直接的で、否定できない現実である。[……]人びとは「私にはこれが聖なるものと思われる

        • 「宗教紛争」「宗教戦争」という名づけはあまりに問題含みである

          (ヘッダ画像は KATEANTIQUITY のサイト より) 拙ブログよりの転載です。どうぞご一読くださいませ。 ==========  「宗教紛争」という名づけはまったく表層的で、真相はきっとおそろしいほど複雑であるにちがいない ―― 多くの人びとはどこかでこのことに気づいている。  わたしたちの調査でもそのことは十分示唆されているし、また最近の報道でも、「宗教紛争」をめぐって政治や経済、教育やメディアなどの要因を強調的に論じることで、問題がそう簡単には記述説明でき

        “ポスト植民地主義的な宗教研究” は、初学者向け入門書のなかで、こんなにも簡潔明瞭に解説されちゃってるんですね。喜ばしいことです

        • 西欧に発し、いまやすっかりグローバル化した宗教概念と宗教研究が、歴史のなかでどう構成されてきたか。そして、その構成ゆえにどのような注意がいま求められているか

        • オットーの「聖なるもの」を再評価し、今こそ使えるものへとなんとか展開させようとする試み

        • 「宗教紛争」「宗教戦争」という名づけはあまりに問題含みである

          10年ほど前、東大宗教学の学生さん向けに「読んでおきたい宗教論」(YONSH)という論文リストを自作していました

          (ヘッダ画像は West Michigan University のサイトより) 2009年4月付けで、標記のようなリストを作っていました。当時、これがどれぐらい皆さんによって活用されたかは定かではありませんが、我ながら、大変自信をもってお届けしていたリーディングスでした。 こちらからダウンロードできます(PDF注意)。ぜひご笑覧くださいませ。 ========== なお、1頁目には、こんな注意書きが書いてあります。 ● 東大宗教学の学生さん(含、前近代史学派!)が

          10年ほど前、東大宗教学の学生さん向けに「読んでおきたい宗教論」(YONSH)という論文リストを自作していました

          「生きられる宗教」とは、すごく具体的な生活と、すごく抽象的なかたち、その二つを同時に、矛盾なく生きていること

          以前書いたブログ記事、ちょっと手直しして転載します。 インドのことを書いていますけど、きっと、他のいろいろな場所の、いろいろな「生きられる宗教」のあり方にも当てはまるんだろうな、と思います。 ==========  インドでは通常、宗教的帰属は親から子へと明確に受けつがれていくから、人びとは家族もしくは血族の単位で、公式の「宗教」範疇におさまっている。「ヒンドゥー」とは「ヒンドゥーイズム」(ヒンドゥー教)の信徒であり、「ムスリム」は「イスラーム」(イスラム教)の信徒であ

          「生きられる宗教」とは、すごく具体的な生活と、すごく抽象的なかたち、その二つを同時に、矛盾なく生きていること

          【シンポジウム】 「宗教」をものがたる -宗教/文学研究のいま-

          第2回「宗教・イメージ・想像力」研究会として、こんなシンポジウムやります。ご参加希望の方、どうぞお気軽に連絡くださいませ。 ========== 【シンポジウム】「宗教」をものがたる-宗教/文学研究のいま-◆ 2016年8月7日(日)13時半から17時半ごろまで(時間帯が多少前後するかもしれません) ◆ 日本女子大学 目白キャンパス 百年館 ◆ 発表者 ※ 諸般の事情から、発表順が変更になりました(160803) 13:30-14:10 茂木謙之介(東京大学大学院

          【シンポジウム】 「宗教」をものがたる -宗教/文学研究のいま-

          「宗教概念批判」というのがあるんですが、なかなか一般の知識として普及しませんので、少しでも分かりやすいように、その要諦をまとめてみました

           自分のブログに以前書いた記事を こちらにも再掲します。noteだと、スマホでとっても読みやすいんだってことに気づきましたので。 ==========  よく指摘されるように、「宗教」という言葉には宗教学者ですらいまだ十分な定義をあたえることができていない。しかし、そうした現状を専門家らの怠慢や無能力によるものととらえるのは正しくない。もはや日常語となったせいであろうか、滅多に気づかれないのではあるが、「宗教」なる概念には、思想上ひいては文明論上の負荷が大変おおきくかかっ

          「宗教概念批判」というのがあるんですが、なかなか一般の知識として普及しませんので、少しでも分かりやすいように、その要諦をまとめてみました

          国家という概念にはアジア的なものと西欧的なものとがある

          国家をちゃんと対象にすえて思考をめぐらすのは、意外とむずかしい。 先日も、日本人の人文学者ばかりが集まる研究会で、まさにそういう事態を痛感させられた。 誠実にして賢明な人たちですら、その思索から、国家論がうっすらとフェイドアウトしていきがちになる―― これには、何か日本に特殊な事情があるのかもしれない。 ということで、吉本隆明『改訂新版 共同幻想論』の冒頭部(「角川文庫版のための序」の最初のあたり)を書きぬく。 昭和56年、西暦1981年の言葉である。  国家は幻想

          国家という概念にはアジア的なものと西欧的なものとがある