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石垣島で見た八重山在宮古郷友会の絆

10月22日(日)から10月23日(月)宮古島のお隣の石垣島に行ってきた。
お隣と言っても石垣島は沖縄本島の様にたやすく行ける場所ではない。
前回石垣島に行った記憶を辿るとなんと27年ぶりだった。

イベントの司会と方言漫才を友人に頼まれたので「石垣!喜んでやります!」と言って引き受けさせてもらった。
そのイベントは八重山在宮古郷友会の「第5回ミャークフツ、ブドゥズ、アーグの夕べ」
私と方言漫才の相方・上里勝彦は司会とプログラムの間での漫才で盛り上げるよう言われた。「任せておけ!」って言ったものの宮古とは笑いのツボも違うし、本場芸能の島・八重山の方々は本物を見る目は肥えている。
これは下手の事は出来ないと言うプレッシャーから珍しく2週間前から、ネタ合わせを行ってきた。

八重山在宮古郷友会の年に1回のビッグイベント

案外宮古色満載だ

 そうそう27年前に来た時は旧石垣空港の時だったな~
当時は滑走路も短くて常に急ブレーキを使用しての着陸していて、機内で寝ていたら着陸時のあり得ない振動に飛び上がるほどびっくりした思い出が有る。

そして南(ぱい)ぬ島石垣空港に初めて降り立った。
新石垣空港は旧空港とは場所も違い、新石垣空港は滑走路もだいぶ長くなった。お蔭で着陸は滑るようにスムーズだった。

初めて利用した南ぬ島石垣空港 宮古空港より広くて新しい
丸二日間お世話になった友人の下地美紀(みのり) 彼には感謝しかない

平坦な宮古と違って石垣島は山が多い

第5回とタイトルには有るが、このイベントのみに関して言っている訳で、八重山在宮古郷友会の歴史は古い。


戦後の混乱期を、通称・裏八重山の未開拓地を自らの手で切り開いて子孫を残していった彼らの苦労は計り知れない。
貧困、食糧難、災害、疫病、害虫被害、迫害、差別などなど、その度に身を寄せ合い、助け合い、励まし合い、お互いの気持ちを鼓舞し合い、宮古方言の「アララガマ!(訳:なにくそ)」と言って乗り越えて来たとのこと。
お祝いが有れば皆で祝い。
不幸が有れば皆で悲しみ。
食べ物やお酒が有れば皆で分け合い。
いざとなった場合は皆で団結する。
何と言っても貧しくとも、心が豊かだったかと思う。
そんな彼らを当時八重山の人たちは脅威に感じていたとの事だ。

後に彼らの活躍は八重山の人たちが予想していた通り八重山全体の活性化へと繋がっていった。
政治、経済、教育、医療と宮古出身者が八重山での影響力を持つようになってきたらしい。

以下、石垣市役所公式ホームページから引用

太平洋戦争が終わると、戦前から中国大陸や南洋など外地に住んでいた人たちがどっと沖縄に引き揚げてきた。沖縄はどこの村も人びとであふれ、食糧難さえきたした。そのため沖縄本島や宮古島の人たちは、新しい移住地として八重山にやってきた。なかには読谷村からの移住者たちのように、米軍基地建設で農地を奪われた人たちもいた。
  新天地を求めてきた人びとは、石垣島の北東部や、通称・裏石垣の各地に次々と入植し、新しい村を建設した。わずかばかりの身の回わり品を持って入植した人たちは、ジャングルに茅ぶきの仮小屋を建て、幾所帯かが合宿しながら木を払って焼き、畑地をつくってはイモなどを植えた。イノシシの害に悩まされ、マラリアが猛威をふるった。
  石垣の街とは一日か二日に一回訪れるトラックで結ばれていたにすぎず、医療施設のない開拓地では、しばしば犠牲者を出した。それでも入植者たちは力を合わせ、歯をくいしばって開拓に打ち込んだ。
  やがて学校を建て、共同売店をつくり、徐々に生活の向上を図った。パインブームで一息ついたものの、日本復帰前の長期干ばつや台風で村を去る人も出た。それにしても戦後の開拓移住は、王府時代以来の〃新村〃建設として歴史にその名をとどめた。(文・三木健)
以上

開拓移住をして来た彼らを労いたい。思いっきり楽しませたい!と言う気持ちが高まって来た。

今年人口5万人を超えた石垣市


芸事はとにかく真剣で完璧にする八重山在宮古郷友会、練習にも余念ががない

「第5回ミャークフツ・ブドゥズ・アーグの夕べ」はお蔭様で大盛況だった。
会場はチケットの売上枚数(150枚)に合わせて30席くらいの余裕をもって180人くらいの席を用意した。
ところが開始前から直ぐに180人を突破して今にも200人に迫る勢い。立ち見はまずいと言うことで急遽、席の配置を変えて席を増やした。またイベント冊子も余裕をもって印刷していたのに全く足りなかった。

そしてなんと最終集計では230人余りの方々が来場したとのこと。
ご来場誠に有難うございました。

郷友会の皆さんのチケット手売りの地道な活動が奏功したものとみられる。

舞台は八重山在宮古郷友会の唄、三線、踊りと実に完成度が高くて素晴らしいかった。その他には与那原マサエさん(石垣在)と、渡真利朗男さん、セリックケナンさんの3人がミャ~クフツパナスで観客の笑いを誘った。

そして私たちはギュウギュウのプログラムの合間に漫才をさせて頂き、当初は方言を聞き取れるか心配だったが、まぁまぁウケたと思う。
下ネタも若干入れたので来年呼ばれるかは微妙だが、力は出し切った。

打ち上げでセリックケナンが言っていたが、石垣では下ネタは歓迎されないって言っていたな~頼むよ早く言えよwww

ぴ~っちゃがまのつもりの打ち上げ会は、大盛り上がりで気づけば3次会まで

開催中の画像がないのは、一応舞台に集中していたこと、程よく緊張していたこともあり撮影出来なかった。

お蔭様でイベントは大成功だった。
普段は打ち上げに参加しないような重鎮たちが今回は参加して頂いたので、20席しか準備していなかった居酒屋は超満杯となるほどの大盛り上がりだった。


平久保埼灯台

翌日の石垣から宮古への航空機の最終便の出発が午後6時55分発なので、
「せっかくだから!」ってことで石垣島観光に行って来た。
友人の下地美紀は仕事を休んでまで、我々の観光ガイド兼ドライバーを務めてくれた。彼には「飛行機の時間まで適当に観光して帰るから、仕事は休まないでくれ」と言う我々のお願いに
「適当な観光は止めてくれ、だったら俺が連れて行ってやる」という頼もしい言葉をもらった。
やったねお言葉に甘えて終日石垣島観光!

月曜日の朝からおっさん3人共ルンルン気分♪

川平湾、平久保埼灯台、バンナ公園、伊原間サビチ鍾乳洞、玉取崎展望台などなど普段は観光では行けない場所にまで連れて行ってくれた。
たんでぃが~たんでぃ!ばんたが あたらす あぐ


サビチ鍾乳洞


牛そば大 

石垣島の印象はとにかく格好良くて綺麗。
街づくりや道路整備、観光受け入れ施設の整備、特産品の作り方、伝統文化の維持継承とどれを取っても宮古の遥か先を走っている。
穏やかで冷静な気質は1つの物事を決めるのに多少時間はかかるが、皆が納得するものを作る。または形にする。だからこそ格好良くて綺麗なんだろうと思う。
何事も直ぐに熱くなり即断即決で物事を決めて、格好の良さなんか気にせずに走りながら修正していく宮古島とは大違いである。決してそこが駄目だと言ってはいない。むしろその方が活気が有るから私は宮古島の気質が大好きだ。

1泊2日の石垣島への旅だったが、八重山在宮古郷友会の皆さんの絆の強さを体感した2日間だった。また行ってみたい。