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こだわり派のこだわらぬ

何を隠そう、私は髪型については全く自信がない。


「まるでセンス無し男」とは、私の為にあるのではないか、と錯覚してしまう程、髪型については自信がない。

ちなみに服についても、最近ようやくユニクロに落ち着いてホッとしているような人間なんだぜ、と某アニキ的な事を言ってみるが、要はそんなもん男である。


ちなみに、決してユニクロをバカにしているのではない。服なんて何買えば良いかわからないし服を買いに行く服がないような人間が、昨今ようやくユニクロの価格設定に対するセンスの良さに気づき「もう全部これでいいじゃん」となった、ということに過ぎない。今ではビジネス系の服もほぼユニクロという有様である。いつも大変お世話になっております。


話を戻そう。


結局のところ、髪型についても美容室といふものに行くようなってから未だ数年しか経っておらず、毎度「どんな風にしますか?」と聞かれては狼狽し「現状の感じで短く・・・デュフフ」を繰り返してきたのである。

まぁ、安牌ではある。では、そこにこだわりがあったのだろうか。


答えは「あった」のだ。


まさかの答えである。毎度美容師に狼狽しデュフフをかましていたような人間に、何のこだわりがあったというのか。


そのこだわりとは「自分のイメージしている自分の型」である。

誰しも、自分とはこうありたい、というイメージや理想形があるだろう。だが、どうやら私の場合はそういった理想形というものではなく、ある種の「現状から外れる恐怖」に近かったのかもしれない。

そう、下手をすると美容師にカットしてもらう度に、激しい後悔の念に駆られるような日々が続くことが多々あったのだ。


鏡に映った、いつもと違う形の自分。

それを休み明けの会社で晒さなければならないという辱め。

下手をすればカットしたお店を出た瞬間から始まる恥ずかしさ。

美容室で切ってもらうのが嫌いなわけではないが、そのような恐怖が襲い掛かってくることを覚悟しなければならない日々が続いていたのだ。


それがどうだろうか。

最近はそうでもなくなってきたのだ。


髪型のリクエストについて抵抗がなくなってきた、という面もある。これも同種の要素の克服によるものだろうが、結局のところ全般的に「こだわりがなくなってきた」のだ。

ロングピース吸ってるような偏屈野郎が何をのたまうか、そう思う読者もおられよう。

その批判は甘んじて受けよう。イグザクトリーその通りでございます。


だが、そのこだわりについて、私の周囲の全てに向けられるものではなくなってきた、と表現すれば解りやすいだろうか。


良い意味で図太くなってきたのだ。

これはとても生きるのが楽である。


この髪型の例でいえば、

・美容師が良いと思って切ってくれた形なのだから、特段オカシイというものでもあるまい、という達観。

・いつもと違う形で違和感があるのは当たり前田のクラッカー。

・今自分がしているから妙な感じと思うのであって、道行くおにーさんが同じ髪型でいた所で別に一切気にならないから、まあいっか、という諦観。

・なんかもうむしろオシャレなんじゃね、という錯覚。


上記の要素による諦めがついた、と言えば、今の自分の心境に最も近い。

どうもネガティブ要素が目立つように思うが、これは全て「良い意味」である。いや、本当に。

自分の容姿についての「自分を縛る」こだわりが、こと髪型の面では解けてきたという事だ。それでも絶対リクエストしない髪型は当然存在するが、幅が広がったと言えば良いだろうか。


そして、それを楽しめる自分も出てきている。

数年前までは考えられなかった変化だ。


だが、ここで留意すべき点は「こだわるものはこだわる」事である。

なんでもこだわらないことが素晴らしいと言っているわけではない。自己の価値観を確立するためには、その人なりのこだわりがあって然るべきだ。それら全てを否定するようでは、「旦那の趣味の模型を本人の許可を一切取らず処分した結果、旦那があらゆるものに対して無気力となり生活が立ち行かなくなってしまうバカ嫁」になってしまう。


たまには、「ネガティブな感情を伴うこだわり」をほぐしてみると、自分の幅や世界が広がることもあるんだなぁ、みつ〇。というお話でしたとさ。


うん、でも今週いっぱいくらいは慣れねぇな。これ。

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