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Stones alive complex (Garden quartz)


「ガーデンクォーツよ。
フォトフレームに閉じ込められし被写体よ。
最大に広義の解釈で差し支えないのなら・・・
キミは、最終章だ」

フォトフレームのガラス面に沿って平らに微笑むガーデンクォーツは、それへの異論は一言も唱えなかった。

白い壁にかけられたフォトフレームは、ガーデンクォーツに都合のいい高さにあった。理想のアングルから部屋全体を見おろせるので、他人事のスタンスから舞台を目撃することができる。

真の芝居が皆そうであるように、到達すべき最終章へは非論理的な前提条件の序章からはじまりながらも、緻密な考察の論理展開に則って物語が進むことになる。

自分が世界の従属物だとするならば。
その従属物が世界を眺めている物理座標の位置はいつも、
横方向に「0、0」縦方向に「0、0」だ。

どうして従属物ごときが常に、森羅万象の原点に居座っている?
従属物なら従属物らしく、
「64,128」「8,256」あたりに控えているべきなのに。

この原点にいる責務に圧倒されてはいけないだと?
いかなる従属物でも、そのようなことはできない。原点に存在する者が押しつけられる自己中心責任は圧倒的だ。

古き親友である土井君が今日ここにいないのは実に好都合だ。あの伊勢市宇治浦田町が誇るドッグマスターなら、これからはじまる神聖なる芝居をぶち壊したにちがいない。

土井君は愛犬キャサリンを散歩に連れてゆくと、必ずキャサリンだけが帰ってくる。

「キャサリンが・・・行方不明だ・・・」

散歩を放棄して、彼はいつもここへと涙目でやってくる。
ここへやってきて、そんな有様を泣きつかれてもこちらとしてはどうしようもない。
それを何度となく親友に免じておだやかに諭したが偉大なるドッグマスターの、タブがちっぽけな耳へは届かなかった。

「行方不明なのはキャサリンではない。
おまえの座標なんだ!
とっとと原点へ還れ!」

今の自分なら土井君へ、数分前に覚醒したこの宇宙の原理をシェアしてあげられるのに。
七転八倒の視点罵倒。

ガーデンクォーツは、いつでも演出力のある共演者を好む。
少なくとも相応しいひとりは、ここにいる。

部屋の壁に打ち付けられたビスに固定されていても。
背後の白い壁紙のスクリーンでは、宇宙の星たちが織り成す栄枯盛衰の花々が、目まぐるしく咲いては枯れ、枯れては紅色の実を結ぶ。
ガーデンクォーツのくっきりしたシルエットが慈愛の眼差しの翼をフレームの境目すら無いかのごとく広げて、その壮大な芝居の幕布として包んでいる。
だが、ガーデンクォーツは演者というより、この芝居の作者だ。

演者と脚本家とでは、まるで立脚点が違う。

ガーデンクォーツに背中を向けたままだが、
手にしたスマホキャメラはすでに起動している。
長方形の強化ガラスで近未来ファッションを気取るその筺体は、これからはじまるアクションへの予感にバイブすら止めている。

まったく動かないので、照れているようにさえ見える。

なんと、愛おしい。

このような擬似感情を備えた文明の利器を、ヒューマンの従属物またはアイテムとしておくのは、もったいないにもほどがある。

インカメラのアングルを慎重に調整して、
ガーデンクォーツの微笑みのアップと自分の横顔が、画面いっぱいに並ぶように構図を合わせた。

ドアに、夜の雨がトタン屋根を叩く感じの陰気なノックの音がした。

「・・・キャサリンが・・・
キャッシーが、また・・・」

防音対策されたドア越しなのに、その声と鼻をすする音があっさり貫いて響く。どんだけの号泣なのだ。

こちらはやっと、ばっちしなアングルが確保できたとこゆえに、口の端さえも動したくない。

せっかく「(仮想)彼女と自宅デートなう」のポーズが決まったのに猛烈にして苛烈に自撮りツーショットの邪魔なのだよドッグマスター土井君。

そっちの(仮想)彼女のことなど、しらん。

すみやかに我がアイレベルの一点透視図消失点その彼方へと、どうか退散を願う。

(おわり)

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