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「さよなら」と言った不思議な少年の話

幼稚園時代、僕は近所の子どもらが通う幼稚園ではなくて、キリスト系の幼稚園に通っていた。
いつも神様にお祈りしてからお弁当の時間だったので、不確かな記憶だけど、きっとそうに違いない…
僕はお祈りのとき必ず目を瞑ったフリをして、ちょっぴり薄目を開けたりして周りの様子を伺う小賢しいやつだったんだ。

そこは「はとり幼稚園」といって、忘れもしない…担任の先生の名前は「ほしのせんせい」といった。

先生は、

「みんなの知らない遠い星から幼稚園に来たんだよ」
「だから”ほしのせんせい”なのよ!」

と説明してくれた。

僕は小学生になるまで”星から来た星の先生”と信じて疑わなかった。まさに天然極まりない。根が真面目なのだ。
それは知らない人に声を掛けられても臆さず挨拶できるほどに。


いま思えば僕は少々おかしな子どもだった気がする。

近所の子どもは足漕ぎの車で遊んでいたけれど、僕だけは三輪車を愛用した。
1970年代当時は本当いい加減だったと思う…
なんていうか、子ども用の遊具は団地の外に常に置きっぱなしで、誰が誰の乗り物に乗っても構わない時代だったのだ。
僕が好んで乗った三輪車は、団地の先代が置いていって持ち主はもういないやつだった。
そしてぼくは何故か流線型の足漕ぎ車よりも、武骨な三輪車のフォルムが好きだったのだ。


さて、詳しく説明しよう。

──時は1973年、高度経済成長の勢いが少し鈍りだしてきたころ、当時幼稚園に通っていた僕は、埼玉県浦和市(現さいたま市南区)市営住宅の団地に家族と住んでいた。
まだそのころは近所に荒地が点在していて不法投棄も多く、電子レンジという魔法の電化製品が世に現れたにも関わらず、ブラウン管TVや小型冷蔵庫など電化製品が草むらに棄てられていたりした。
たぶん触ってはいけない危険なガラスとか、変な色のドロドロした溶液なども、当時は平気で垂れ流されていたりしたのだ。
ただ僕らにとってそれは全て宝の山であり、そんな危険地帯はそこらじゅうにいっぱいあったりした。
大きな子たちは秘密基地を次々と作り、僕ら小さい子たちを集めては自慢の基地へ案内してくれた。まさにショッカーの基地さながらである。

僕らは”サハラ砂漠”と呼ばれる広場で遊ぶことも多かった。
それは、大人になってよくよく思いだすと宅地造成のため平らに均された土地だったのだけれど、その場所は、強い風が吹くと土埃が渦になり天に巻きあがってゆく”バビル2世”のようなところで、その様子を見た誰かが「サハラ砂漠」と命名したのだ。なんとも素晴らしいネーミングセンスに恐れ入る。

土曜日の午後は「瀬田先生」のお宅まで歩いて行った。先生の家には児童書がたくさんあったのだ。
絵本や挿絵の入った小説などが山ほどあり、先生は家ごと私設図書館として近所の子どもに開放してくれていた。
その頃の僕は、本を読んで空想の世界に浸ることがとても好きだった。
当時はよくわからずに「せたせんせい」と呼んでいたけれど、あとから気づけばその方は「ライオンと魔女」で有名な「ナルニア国物語」の翻訳をされた瀬田貞二先生だった。

その瀬田先生の自宅からの帰り道、僕は少し足を伸ばして「綿菓子製造機」があるボウリング場へよく寄り道をした。そこで綿菓子を作ることが楽しみだったのだ。
1回10円で綿菓子が作れるのだが、──ある夏の日、その機械が壊れて止まらなくなったことがあった。被っていた麦わら帽子で覆ってみたりしたのだけれど一向に止まる気配がなく(止まるわけがない)最終的には一緒にいた友だちと無限にザラメを投入して顔中ベッタベタになるまで綿菓子を堪能したあと大人を呼びに行ったのだった。もう時効だと信じてここに記してみる。

いまでもそうなのだけど、僕は幼稚園児のころから目を開けていても閉じていても小さな白い光をみることができたりする。
明るい白とその周りを赤と青の鈍い光がゆっくりと流れているのがみえるのだ。
これはネットで調べたら同じ現象を体感する人が案外いるようで、昨今のネット普及で少数ながら仲間を発見できて少し安心している。
原因は不明だが視覚ではない(目を閉じてもみえるから)ので網膜に映った残像を追っているのかもしれないな…と思っている。

ただそれだけでない。僕は空から電気が降り注ぐ光景に出会ったこともある。雨が地面に落ちる速度よりも遥かにゆっくりと、青白く光る棒状の電気(都合上電気と表現する)が降り注ぐのだ。僕はこの光景を団地の窓からぼんやりみていた。これは未だに解決できていない不思議現象だ。

やはりおかしな子であろう。幼稚園の時に受けたIQテストで数字の「2」を見せられて「ワニ(爬虫類)」と言い切ったのも僕である。IQが高いと親は喜んだようだけど、そんなこと僕にはいい迷惑だった。こんなのただの変わり者でしかない。

そんな幼少期を過ごした僕は、小学校2年生の6月まで住んでいた団地を後にして、上尾市へ引っ越していった。


◇◇◇


数年前のある日(この当時僕は9カ月ほど失職中だった)
何故か僕は、この生まれて幼少期を育った場所にいってみようと決心した。そう車で遠くもないし、単純にいまどうなってるのかなあ?なんてセンチメンタルな気分になってしまったのだから仕方ない。

住所はよくわからず、ただ道は何となく覚えていて、旧大宮市の氷川神社脇の産業道路を南進、旧与野市を超えて、旧浦和市へ。右手に浦和競馬場が見えたらすぐ左へ入る…

懐かしい…

となった。それは幼少のころからあった薬局がまだあったからだ。
サトちゃんは何代目かわからないが、店頭にはキレイな象のサトちゃんが笑顔を浮かべていた。ただそれは一瞬の出来事で、その他は知らない、覚えていない店が数件並んでいた。
緩やかな坂道を下ると「はとり幼稚園」は存在していた。中を覗くことはできないけれど、何となく安堵した自分がいる。
その先にあるはずだった「フジパン(神野商店)」はもうなくなっていた。
この店で、夏は「バニラエイト」や「メロンシャーベット」「ホームランバー」を買ってもらったし、冬は肉まんを買ってもらったり、クリスマスの”長靴”を買ってもらったのもフジパンだ。
母親は、
「カンノさん行ってくる」
と、よくここで買い物をしていたが、この店が近隣の日々の生活を守っていたのかと思うと何気に感慨深い。
よく考えれば当時経営していた人たちはもう亡くなっているはずで、2代目がいればお店も続けているだろうけど、それはなかなか難しい。時間はそう簡単には止められない。古いものは新しくなりながらゆっくり新陳代謝を繰り返し、時間のピースを積み重ねてゆくのだ。

ここから先は道路が二つに分かれて下の住宅地と上の団地に行けるようになっている。これもそのままだ。そして団地は建て替えられてきれいになって現存していた。ただもう面影は全くない。団地の近所でラジオ体操した空地もなくなり住宅地になっていた。その空き地からサトちゃん薬局へ抜ける秘密の裏道もなくなっていた。湿地帯だった荒地も全て住宅が立ち並んでいた。正直道がわからない。荒地の真ん中にあった「サハラ砂漠」など、もはやどの辺りか見当もつかない。

──車を停めて、少し歩いてみた。
小学校(大谷口小学校)までの道のりは当時6歳の子どもには大変だったけど、いま歩けば案外近いな…という印象。ただ通学途中にあった競走馬の厩舎は跡形もなくなくなってしまっていた。ここは小学1年生だったころ火事で燃えてしまったのだけど、もしかしたらその時すでに見切りをつけて移転していたのかもしれない。
僕は大谷口小学校開校時の新1年生だったけれど、そこはもう開校から30何年経過していて古い学校になっていた。気がつけば裏に中学校も出来上がっていた。

それでも、
それでも、歩いていると、曲がりくねった「けもの道」の感じとか、左に曲がりながら下る学校への坂道とか、足から伝わる感覚がぐるぐると時代を巻き戻してゆく。
だんだんと、僕の目蓋に当時の景色が薄っすら蘇ってくるから不思議だ。僕は幼少の頃のいろいろをゆっくりと思いだしていた。

団地の裏の森には魔女のおばあさんが住んでいて
「遅くまで外で遊んでいると魔女に連れていかれちゃうぞ」
と、大人たちから聞かされていたこと。
湿地帯だった荒地には青大将という大蛇が住んでいて怖かったこと。
アメリカザリガニが山ほど獲れたこと。
道はまだ舗装されていなくて、きれいな色のガラスの破片やビー玉が土から顔を出していたこと。。。
いま見れば、団地の裏にあった森はただの雑木林で、その先には普通に住宅が立ち並んでいた。もう地面はアスファルトで覆われていて土の道はなく、ビー玉は蝉と同じように土から地上への道を閉ざされていた。


──記憶は記憶でしかなく、僕はいまを生きているのだ。


しばらく散策した僕は、停めていた車に戻ることにした。
その足取りの途中、いまどき珍しい三輪車に乗った子どもに遭遇した。
その子は今どきではないデザインの古クサい麦わら帽子をかぶり、薄汚れた仮面ライダーのTシャツを着ていた。
僕はこの辺りに住む近所の人じゃないし、このご時世、いきなり不審者に間違われては困るなあと思い、

「こんにちは」

とだけ、その子どもに挨拶をした。

その子はこちらをチラッと見て突然

「さよなら」

と挨拶してくれた。

──その瞬間、視界が歪み、世界がぐるぐると周りはじめ、よくドラマの演出にあるような、時計の針がぐるぐると凄いスピードで逆回転するような不思議な感覚に陥った…動悸がひどい。

そして、ハッと気がついた。

そう、その子どもは、
その子は紛れもなく自分だった。

確かに僕は見知らぬおじさんに「さよなら」と言った。言った記憶がある。
間違いなくこのときのことを、いま鮮明に、そしてぐるぐると思いだしている…

ただ、同時にその印象的な「さよなら」という言葉は、失業中で沈みがちだった自分に踏ん切りをつけるよう自然と導いてくれたのも事実だ。
そうだよ…甘っちょろい過去とはもう決別しなくてはいけなかったのだ。

前を向く。

そう、僕は前だけを向くことにした。
もちろん振り返ったそこには、もう誰もいないからである。

サポートするってちょっとした勇気ですよね。僕もそう。書き手はその勇気に対して責任も感じるし、もっと頑張ろうと思うもの。「えいや!」とサポートしてくれた方の記憶に残れたらとても嬉しいです。