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約束

誰もいない展望台から夕陽を眺める。少しだけ錆びついた白い金網の柵には、たくさんの南京錠がかけられていた。
「懐かしいな」と絢子は目を細め、遠く水平線を見つめた。
金色の空はやがて薄紫色のグラデーションに浸食され、気が付けば絵の具を溶かすように藍色が深く夜へと導いてゆく。いつのまにか、周りにはチラホラとカップルの姿が増えていた。

「私もこんなだったかしら」と胸に問いかけてみる。
絢子は、ポケットの中でずっと握りしめていた南京錠を取り出すと、カチリと柵に取り付けた。
すでに濃紺のマジックアワーはその役目を終え、本格的な夜景が眼前に広がっている。
もう一度、展望台から平塚の街をゆっくりと見下ろした絢子は、
「あの時と同じなのにね」
と独りごちて、そうして誰ともなしに「じゃあね」と踵を返し歩きはじめた。

絢子はもう振り返ることはしなかった───。


◇◇◇


それは高校二年生の夏だった。
部活の合宿で江の島に行くことになり、そのレクリエーションの一貫で行われた「肝試し」をきっかけに、僕は同じ部活だった絢子と急接近した。
それまでの絢子の印象は、愛くるしい顔立ちとは裏腹に気の強いところが目立っていて、僕ら男子の評価は「ちょっと敬遠したい女の子」というものだった。
ただ僕は、みんなの意見に流されている風を装いながら、秘かに絢子のことを思っていた。くじ引きで絢子とペアが決まった瞬間、それはもう間違いなくニヤけていただろう。

懐中電灯で足元を照らしながらゆっくりと歩く。二人きりになると、思いのほか絢子はかわいらしい素振りを見せ、それでいてしっかりと大人だった。
絢子は僕の腕に自分の腕を絡めてギュッと引き寄せ、僕はドキドキしながらも絢子のふくらみを堪能した。
暗い夜道だからといって怖さなんか微塵も感じる余裕はなく、そればかりか騒がしいはずの波の音すらも僕の耳には届かなかった。

沈黙────。

僕は勇気を振り絞って告白した。

「絢子って、彼氏いる?」
「なんで──?いないよ」
「えっと、あのさぁ、僕と…僕と付き合って欲しいんだけど…」
「え──っ?うっそ──?なに?健太って私のこと好きなの?」
「絢子は僕のこと、どう?好き?」
「へへっ、どうかなぁ──」

ただ、それから僕らふたりは一緒に行動することが多くなった。絢子は僕に思わせぶりな態度を何度も見せ、その度に僕はイライラした。

「僕はね、絢子のことが好きなの。大好き。ねえ、ねえ絢子は?」
「うーん、嫌いじゃないわ」

絢子は決して「好き」と言う言葉を口に出さなかった。僕はまだまだ子どもで、絢子は明らかに大人だった。
恋心とは、ワクワクして、ドキドキして、ほんの少しだけイライラするものだと、その時に思い知らされた。

年が明け、時代は「平成」に変わった。僕は「夜景のきれいなところに行こうよ」と絢子をデートに誘った。友人から「鉄板デートコース」という秘策を教えてもらっていたのだ。
それは、山の上にあるテレビ塔の展望台から一面に広がる夜景をバックに「二人の名前を記した南京錠を柵に取り付けて愛を誓う」というミッションで、「お前、天才か」と問いただすと、その友人は大学生の姉から情報を得たと白状した。どおりでロマンチックなはずだ。

このデートプランに絢子は「わかった」とだけ言い、そのそっけない素振りが僕を少しだけ不安にさせた。
ただ、その日の絢子は寒空の下、真っ白な脚を大胆に見せたミニスカートで登場した。

二人でテレビ塔に上る。マジックアワー。日は沈み、それでいてまだ薄明るい紫色の世界。星屑をばら撒いたような街の灯かりが幻想的過ぎて、逆に僕らは檻に閉じ込められた囚人のようだった。何故なら、そのスペースは安全のため白い金網に囲まれていたからだ。

僕はポケットに忍ばせていた南京錠を取り出し、油性ペンで名前を書いた。そして絢子に渡す。受け取った絢子は女子っぽい丸文字で僕の名前の横に小さく「あやこ」書くと、そのあと「スキ」と、見えないくらい小さな文字を書き足した。

初めてのキスはお互いの歯が当たってしまい、笑いが込み上げ大失敗に終わった。


◇◇◇


時は過ぎ、僕らは三年生になり、進路のことでぶつかった。絢子は北海道の大学へ行くという。転勤する父親と一緒にしばらくは北海道で暮らすことになると告げられた。それはまだ学生の僕にとって途方もない遠距離という試練で、紛れもなく別れがチラついた。

それからは、ちょっとしたことで言い争い、何度も喧嘩しては仲直りした。好きで、好きでたまらなかったのだ。
それでも現実は否応なしに突き付けられる。絢子は勉強ができる才女であり、見事北海道の大学に合格した。

別れは僕から切り出した。

「やっぱり、無理だよ。電話代だっていくら掛かるかわからないし……」
「夏休みには帰って来るよ、大丈夫だよ」
「無理だよ、絢子、ぜったい向こうで好きな人できるよ」
「なんでそういうこと言うの、怒るよ」
「・・・・・・・・・・・・・」

僕はもう破れかぶれだった。

「絢子が覚えていたらまた会おうよ。僕だって忘れない。絶対。とりあえず振り出しに戻るんだ。絢子が大学卒業して、こっちへ戻って来たら、そしたらまたあのテレビ塔に行ってまた最初から始めようよ」

絢子は俯いたまま「うん」と小さく頷き、折り曲げた人差し指で目尻を拭った。そのあとはもう何も言わなかった。

三学期はほとんど学校に行くこともなく、電話で話してみても、どこか盛り上がりに欠けた。いよいよ北海道に旅立つ絢子を見送ることもせず、そうして僕らは自然と離れていった。

それから三年──。

絢子から暑中見舞いのハガキが届いた。
そこには、ショートだった髪が肩まで伸びた絢子が映っていて、そのかわいさに僕の心はチクリと痛んだ。なんとなく気まずさを感じた僕は、グズグズした結果お盆過ぎに残暑見舞いの返事を送った。

そこから月日は流れてゆき、さらに三年が経過した。
僕は地元で一度就職したあとに転職をして、中途採用組というプレッシャーに追われながら忙しい日々に追われていた。その頃はすでに一人暮らしを始めていて、そこには晩ご飯を用意してくれる新しい彼女が通って来てくれていた。

夏──。

久しぶりに実家に帰ると「暑中見舞い着てたわよ」と、母親から一枚のハガキを渡された。そこにはビキニ姿の絢子が映っていて「北海道にも海水浴場あるんだなぁ」なんて、その時の僕はすっかり絢子のことを過去の人にしていた。消印は札幌のどこかだった。

その一年後、僕は付き合っていた彼女と結婚をした。翌年には家族が一人増え、世間一般で言う幸せな生活まっしぐらだった。その頃にはもう絢子からハガキが届くことはなくなっていて、モヤモヤとした記憶の引き出しを開けることもなくなっていた。


◇◇◇


桜のつぼみが淡いピンク色に膨みはじめた春分の日。
僕は高校を卒業してから一度も行ったことのない同窓会に出席した。「平成最後の大同窓会だから必ず来いよ」と言われたのもあるけれど、なんとなくあの頃のみんなに会ってみたいと思ったのだ。
およそ三十年。久しぶりに会う同級生たち。男子はだいたいわかるけれど、女子に至ってはほとんどわからない。
それでも「健太、久しぶり。なんだぁ、いいおっさんじゃん」と声をかけてくれた女子もいる。名前を言われても思い出せないので適当に相槌を打って誤魔化した。

そのまま二次会へとなだれ込む。

僕は部活が一緒だった友人とべろんべろんになるまで酔っ払い、そして懐かしい話に花を咲かせた。いよいよ呂律の回らなくなった友人が、ここぞとばかりに思わぬ懺悔をし始めた。
「俺さぁ、いままで黙ってたけど、部活の合宿で江の島行ったじゃん……でさぁ、肝試しやったじゃん、あの時さぁ、三島に脅されてお前とペアになる様に細工させられたんだよね」

「え……」と、酔いが一瞬にして覚める。

「でさぁ、お前らちょっと上手くいったじゃん、あれさぁ、なんだっけ?鉄板デートってやつ、実はあれも三島が考えたプランだったんだよね。お前、あれ実行した?」

酔いは覚めているはずなのに、頭の中はグルングルン回っている。遠くから女子の声も聴こえてきた。

「絢子ってさぁ、北海道に引っ越してからずっと帰ってこなかったじゃない……でも来週帰ってくるんだって。なんだかお母さんの具合が悪いらしくって、こっちの病院で少し介護とかやるみたい、絢子って、ほら、看護師だから……」

絢子が帰ってくる……。僕は突然の衝動に駆られていた。

絢子に、会いたい。

 それが正直な気持ちだった。何年経っても、全然終わってなんかいなかったのだ。

電車通学だった絢子を、自転車の後ろに乗せて駅まで送ったこと。僕の学ランを着てポーズを取った絢子がとてもかわいかったこと。絢子の貸してくれた小説が同性愛モノで、変態呼ばわりして怒られたこと。誰もいない教室で、何となく雰囲気に押されてキスした瞬間に部活の後輩がガラッと扉を開けて大慌てしたこと。思い出が次から次へと溢れ出てくる。

絢子に会いたい……妻子ある身で、こんな気持ち許されるはずがないけれど、それでも好きと言う気持ちがもう止まらなくなっていて、僕は居てもたってもいられなくなっていた。

そして思い出した。絢子がこっちへ帰って来たら、まずテレビ塔の展望台に行こうと約束したことを。あの日から絢子は地元に戻ってないという。いい加減な約束だったけど、もしもあの約束が有効だったら絢子は必ずあの場所に行くはずだ。振出しに戻るとか、最初からやり直すとか、そんなのはもうわからないけれど、とにかくあそこに行けば、きっと絢子に会える
──────。

同窓会から一日経ち、二日経ち……僕はある程度冷静さを取り戻していた。ただ、絢子に会いたいという気持ちに変わりはない。僕は悩みぬいて、週末の日曜日に展望台へ行くことを決めた。翌日の四月一日には「平成」の次の新しい元号が発表されるという。平成に始まった僕らが、次の元号が発表される直前のタイミングに再び…そんな運命的な何かを僕は信じることにした。  
展望台に行くのは一回切り。そこで絢子に会えなかったら諦める。もちろん可能性は限りなくゼロに近いけれど、僕は不思議とそこで会えるという確信めいた気持ちを持っていた。

三月三十一日──。

日は暮れ始め、金色だった空がゆっくりと茜色に染まってゆく。僕はテレビ塔を目指し車のアクセルを全開にした。
マジックアワー。薄紫色だった夕暮れの空は藍色のカーテンで覆われてゆく。テレビ塔に着いて真っ赤な階段を駆け上がると、平塚の街並みはすでにキラキラと美しい夜景に包まれていた。辺りを見回すとまばらな人影があり、カップルのシルエットが浮かび上がっている。絢子の姿はない。

僕は「いないか……」と軽くため息をついた。ちょっとイライラする。「これって恋だよな……」なんて思いつつポケットから南京錠を取り出すと、腹立ちまぎれに「バーカ絢子」と書いて、カチリと柵に取り付けた。「やっぱ来るわけないよな……」とつぶやき、がっくりと肩を落とすと大きく息を吐きだした。そんなドラマみたいに物事上手くいくわけがなかったのだ。
うなだれた僕は、その低くなった目線の先に自分が取り付けた鍵とそっくりな形の南京錠があることに気が付いた。しゃがんで顔を近づけてみる。その真新しい南京錠には見覚えのある丸文字で、ふたつの名前が記されていた。

そしてその横には小さな文字で、

「ずっと覚えていて」と。

手に取った南京錠は、まだ少しだけ温もりが感じられた。
僕はポケットにしまっていた油性ペンを慌てて取り出すと、見えないくらい小さな文字で、

「スキ」

と書き足し、走り出した。

FIN

サポートするってちょっとした勇気ですよね。僕もそう。書き手はその勇気に対して責任も感じるし、もっと頑張ろうと思うもの。「えいや!」とサポートしてくれた方の記憶に残れたらとても嬉しいです。