見出し画像

青の緞帳が下りるまで #038

←(前回)「青の緞帳が下りるまで #37」(第十一章 最後の歌 2)


終章 1


「ではAはアナスタシア王女ではない、と」

 秘密通路を通って、マエストロの楽屋に入ったイーラは訊いた。

「ええ」

 壁の落書きを見ながら、マエストロはうなずく。

「ミーチャがMとサインをしたのが紛らわしかったのでしょうね。本来ドミートリーである彼は、Dとサインすればよかったのです。だからこそ、Aが誰のイニシャルかわからなくなった。サーシャがSではなく、Aとしたのは、サーシャの本名がアレクサンドルだったからです」

「サインの下の、その星のような模様は」

「王女、という意味ではないでしょう。私の知る限り、ヤローキンも、サーシャも、その後、私が会った鏡の館の住人たちも、サインに同じような模様を入れていました」

「ということは」

「私の憶測に過ぎませんが、王族と鏡の館の住人にのみ許されたサイン。アルトランディアの至宝――という意味ではないでしょうか」

 だからこそニコライ十二世も、王女であるアナスタシアも、サインの隣にオキシペタラムのような模様を描いた。

「イーラ、あなたのおかげです。あなたのおかげで私はやっとサーシャの正体を知れたのです。国外に出た後も、どれだけサーシャを探したことか」

 マエストロは静かに微笑んだ。

「私はずっとサーシャを女の子だと思っていました。探せないはずです。サルティコフ大公の残した脚本を読む限り――これが脚本という形をとった真実であるならば、サーシャはアルトランディア王国の最後の王子ということになるんでしょう」

 真実を知ったのはイーラも同じだ。
 祖父母が隠していた祖父の罪を知った。非常時に際し、王宮の鏡の館の至宝の疎開を任されていた祖父は、あろうことか、王子用の旅券を、一般庶民にまわしてしまったのである。

 だからこそ、クーデターの当日、アナスタシア王女は、サーシャがまだ王宮に残っていることに驚いたのだ。
 王女は、アルトランディアの至宝を守るという義務を果たした。そしてそれはまた、王女が救ったサーシャも同様だった。

 イーラは溜息をつく。祖母はイーラに半分も教えてくれてはいなかった。もっともこの事情は、祖父の名誉を思えば、記録できないことだ。

 若きマエストロが国外に脱出した翌々日、王都で最後の国王ニコライ十世とアナスタシア王女の葬儀がとりおこなわれた。
 二人の亡骸は王都の王室教会の墓地におさめられたとされるが、二人の遺体は火災で完全に焼失されたため、葬られた遺体は本物かどうかは、現在も不明とされている。

 そのためだろう。事件から半世紀たった今でも、アナスタシア王女は生きていたのではないかという伝説が世間を騒がせる。

 アルトランディア人にとって悪の象徴とされるアナスタシア王女。
 彼女は誰よりも、アルトランディアの王族であり、誇りを持っていた。
 彼女は至宝を守った。至宝とは、アルトランディアが産出する、ヴォストク鉱山のトパーズではない。人である。

 ――ヴィーチャ、私は義務を果たそうと思う。きみは至宝だ。

 サーシャの言葉がマエストロの頭に響く。あの日のことは、昨日のことのように思い出せる。
 マエストロはイーラに話しかける。

「私が調べたところによると、国王ニコライ十世の即位記念式典で、王立劇場に行ったと思われていた鏡の館の住人たちは、その後、皆、海外に亡命しています」

 亡命した芸術家たち――鏡の館の住人たちは、サルティコフ大公の手の人間によって、ユヴェリルブルグに送られ、国外に出た。
「鏡の館」のことは禁句であり、彼らの口から「鏡の館」のことも、アナイ・タートのことも、サーシャのことも語られることはなかった。ただ、彼らは一度として、王族のことも語らず、アナスタシア王女のことを悪く言うこともなかった。

 アナスタシア王女をめぐる悪評の最中、真実に近い人たちほど、沈黙するものかもしれない。

 ステージで歌っている歌手の声が楽屋にまで聞こえた。
 リハーサルを行っているのだろう。音楽祭でソロをあたえられた、アルトランディア人の若手の歌手だ。曲はヤローキンの聖歌。

 イーラはマエストロの顔を見る。
 見事な歌唱力だが、マエストロの反応は薄い。彼の中の最上の音楽は、サーシャという歌手の声なのだろう。

「残念ですね。世に出ていればさぞかし有名な歌手になったでしょうに」

 話を聞き終え、立ち上がったイーラはマエストロに言った。
 マエストロの話を聞いて明らかになったこともあれば、増えた謎もある。
 アナスタシア王女の生死も行方も謎。サーシャの生存も謎。それでも十分だった。
 祖父が渡したかったものを、マエストロに渡すことができた。そして、祖父のことを知ることができた。
 イーラの手には、ミーチャが残した台本と書類が戻される。

「そうですね。だけど、あれは最初で最後だったから、価値があったのかもしれません」

 声変わり前の、燃え尽きる前の最後の輝き。

「イーラ、私がこの国に戻った目的はもう一つあるのですよ」

「なんでしょう?」

「音楽教育です。貴賎の別なく、年齢の別なく音楽家を育成するのです。それがヤローキン先生の意志でしたから」

 マエストロは笑顔を見せ、イーラの手を握った。

「アナスタシア王女の本を書かれたそうですね」

「なぜそれを?」

「劇場職員のマルーシャという子から聞きました。私が滞在中に発売されるのであれば、ぜひ読んでみたいのですが」

 ああ、とイーラは言いよどむ。

「発売は延期になったのです。アナスタシア王女を擁護する内容だったので、時機が悪いと。しかもマエストロがアナスタシア王女をお嫌いということでしたから」

「それはお気の毒でしたね」

「でも、延期になってよかったとも思うのです。結局、私が知ったことも、祖母の目を通した、一面でしかないことがわかりましたし、アナスタシア王女のことを――国民が理解できないのは残念ですが、いつか悲劇の王女について納得のいく原稿が書きたいです。いつか世に出せる日がきたら」

 マエストロから知ったことの多くも、世に出せないことだ。
 いつか平和なときがくれば、そのときこそ、真実を表に出すことができるだろうか。
 マエストロは静かに言った。

「イーラ、私はアナスタシア王女は悲劇の王女だとは思わないんです。本来の性格か、あえて悪役を演じようとしたのかわかりません。けれど王女は、自分が悪者だと――思われたかったのではないでしょうか」

「悪者だと?」

「ええ、最後まで王女たらんとしたのでしょうね。悪者だと思われていることこそ、彼女の本望なのではないでしょうか」

「マエストロ?」

 イーラはマエストロの言っている意味がわからず、小首をかしげた。だが、もう時間だ。
 マエストロのスケジュールはこれ以上動かせない。

「イーラ、お元気で」

「マエストロも」

 マエストロは笑った。

「いつかあなたが本当の真実にたどりつくことを祈っています。ミーチャのお墓まいりをしたら、よろしく伝えてください。もう神様の御許で姉に会えたかもしれませんが、姉はミーチャが幸せな配偶者を見つけたこと、あなたのような孫が生まれたことを、きっと誰よりも喜んでいるでしょうから」

***

 イーラを送り出した後、マエストロは秘密通路の扉を閉め、壁のイニシャルを見つめた。
 音楽祭の開演までにはまだ時間があるが、取材が何件か入っている。

 マエストロは面会場所のロビーに足を運ぶ。その脇、マエストロの帰還にあわせたもうけられた歴史資料展には「奇跡的に戦火を逃れた国宝展」という副題がつけられている。
 ヤローキンの自筆楽譜に手紙。マエストロの私物が飾られたその場所に、あらたにアンティークものの楽器と舞台衣装が加わっていた。
 説明書きを見ると、『サルティコフ邸蔵』とある。

「……どうしたんです、これは?」

 マエストロは職員に聞いた。
 偉大なマエストロを前に、劇場職員の女性は緊張した面持ちで答える。

「サルティコフ家縁の方から提供があったんです」

「サルティコフ家?」

「ええ、その……その方が公演後、現在マエストロがお泊まりになっているホテル――旧サルティコフ邸で、マエストロとお話がしたいとおっしゃっていました。マエストロのお帰りを楽しみになさっていたそうです。この劇場の修復にも莫大な寄付金を提供してくださったんです」

 サルティコフといわれて老マエストロが思い出すのは、サルティコフ大公だが、大公には子供はなかったはずだ。劇場で会った大公が生きていれば、百歳を超えることになる。

 マエストロは首をかしげながら、先の展示へと移った。
 ベルリン時代、世話になった画家の作品だった。

「フランスに亡命した画家イェルゲスのアルトランディア王国時代の貴重な秀作と言われています」

 職員はマエストロに説明した。
 色褪せたスケッチ画が三枚、連作のように並べて飾られている。キュービズムの大家と言われるイェルゲスの珍しい写実絵だった。
 在りし日の王宮を偲ばせる美しい庭園。黒いドレスを着た麗しい貴婦人。

 そして――。

 三枚目を見つめるマエストロの目から自然と涙が溢れた。
 それは「食堂」というありふれた題の絵だった。
 ホールに置かれたピアノに座る少年とにぎやかそうな食事風景。

 ダークブラウンの髪を後頭部で束ねた小姓姿の愛らしい少年がピアノの鍵盤を叩いている。弾きながら歌っているのかもしれない。人形のように端正な顔。青い宝石のような瞳。

 マエストロは、目を細めた。
 ああ、そこにいたのか。

 忘れもしない。サーシャだ。

 それはアーサスと呼ばれた時代のサーシャの絵だった。遠巻きに彼を見ている黒服の夫人がアナイ・タート。その隣に立っているひげもじゃの人物がヤローキンだろうか。

(あ……)

 マエストロの頭にあることがひらめいた。
 その絵を見ているうちに、ばらばらになっていたパズルのピースがはまっていった。

 鏡の館。アーサス……。ああ、なんということだ。今の今まで気がつかなかったなんて――。変な名前だと思っていた。だけど、彼らの名前には規則があったのだ。
 アーサスは逆から読めば、SASHA(サーシャ)。アナイ・タートはANAITAT(タチアナ)鏡の住人の名は逆さ言葉だったのだ。
 では、ヤローキンは。ヤローキンは一体何者だったのか。

 YALOKIN。

 その事実にヴィターリーは愕然とした。
 震える体を両腕でおさえた。
 ああ、だからヤローキンには時間がなかった。彼には作曲などしている暇などなかったのだ。

 NIKOLAY……ニコライ――。

 ――やっとわかったのかい?

 絵の中のサーシャが微笑みかけてきた。
 係がマエストロに面会希望者が来たと告げにきた。
 でも、もう少し、彼の顔を見ていたかった。ニコライ十世の王子ではなく、歌姫でもなく、いたずらっ子のような顔をした少年の顔を。

→(次回)「青の緞帳が下りるまで #39」(終章 2)


ありがとうございます。いただいたサポートは活動費と猫たちの幸せのために使わせていただきます。♥、コメントいただけると励みになります🐱