青の緞帳が下りるまで #036
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第十一章 最後の歌 1
教会の裏口の前で、サーシャの告白を聞いている間、ミーチャの体の震えが止まらなかった。寒さのせいではなかった。自分がしでかしたことの恐ろしさを、罪を――思い出したのだ。
王宮の宝物庫『鏡の館』の至宝の疎開リスト。ヴィーチャの旅券と旅行許可証を取るために自分は何をした。
リストの下の欄に、小間使いと書かれた人間がいた。その意味をろくに考えなかったのだ。
芸術家のリストの中で、その小間使いだけは至宝にふさわしくないと勝手に判断した。
その人物名と肩書きを消し、ヴィーチャの名前を上書きした。その小間使いとは、このサーシャのこと。自分は――サーシャが国外に逃げる手段を奪ったのだ。
あの青印のついた旅券は、鏡の館の住人にのみ与えられるものだった。万が一、極秘指令を受けた王立軍の救援が間に合わなかったときに自力で国外に逃げられるように。
鏡の館の住人の居住地は王宮になっているため、管轄は王宮庁になる。王宮が全焼した今、その住所を証明するものはない。一般の役所では旅券の発行ができないのである。
そのときだった。
「アーサスじゃないですか!」
二人の目の前に現れたのは、軍服姿のキリル・シェレメーチェフ中尉だった。
彼の顔を見てサーシャは一目散に逃げ出した。雪の中、足をもつれさせながら。
「アーサス、待ってください!」
「まだ行けない!」
「キリル、お前、サーシャを知っているのか!」
後を追って走りながらミーチャは訊いた。
「知ってますとも。鏡の館の住人ですよ。私は彼の日報を大公に届けていたのです。何であの子がここにいるんです。どうして旅券を所持していないんです!」
「あの子には……旅券がない」
「なぜです?! あの子の分も作るようにサルティコフ大公からリストをもらっていたでしょうに! あの子の旅券は特別製なんですよ。青印に特殊のインクで王家の紋章が刻まれています。その旅券を持った人間が市庁舎に現れたということで、今、リトヴィス・アルトランディア臨時政府の軍人がその住所に向かっているはずです」
その旅券の現在の所持者は――ヴィターリーだ。
(あのバカ、市庁舎なんかに行ったのか!)
ミーチャは拳で自分を殴りたい気分になる。
そんなミーチャの横顔を見つめ、キリルは冷ややかに言った。
「旅券が偽造とわかれば、公文書偽造罪で逮捕されることは間違いないしょう。あなたもですよ。大公が許しても私が許しません。これは個人が許す許さないの問題ではない。あなたは――国家存亡の危機を陥れた重罪人です」
聞くやいなや、ミーチャは一目散に劇場へと向かった。キリルは追ってこなかった。おそらく、行き先はわかっているからだろう。
サーシャを路地の行き止まりまで追い詰めたキリルはゆっくりと近寄り、その腕をとった。
「アーサス、私もつられて劇場に行ってしまうところでした。行きましょう。あなたは私が保護します」
「劇場にはヴィーチャが……」
「ほうっておきなさい。あなたの旅券を勝手に使った人間など。世が世なら不敬罪で処刑ですよ」
「いやだ。まだ……ってない……」
「アーサス!」
「私はまだあの劇場で歌っていないんだ! ヤローキンの歌を!」
ヤローキンと約束した舞台で――。
そう叫んだときだった。
「あなた、何してるのっ。サーシャを放しなさい!」
二人の目の前にあらわれたのは、ヴィーカだった。ヴィーカは手にした買い物袋を捨て、キリルに飛びかかった。雪の上に、買ったばかりのケバブが落ちる。
「ああ……やっと手に入れた最後の肉だったのに……」
嘆きながらも、ヴィーカはキリルの胴体にしがみつき、離れなかった。女の子を振り払うのはキリルにとってたやすい。だが街の往来で女の子に暴力を振るうのは気が引けた。
その一瞬の隙をつき、サーシャはキリルの腕をといて裏路地へ走った。
「なんでサーシャを襲うの? アナスタシアなら私よ! 連れて行きなさいよ! 王女は生きていたのよ!」
ヴィーカはアルトランディア語とリトヴィス語でキリルに言った。
キリルは長上着の裾についた泥と雪を払いながら立ち上がり、ひとりごちる。
「偽王女に会ったのは何度目でしょうね。たいていのものは金目当てでした。王女という地位はそれほど魅力的なのでしょうか」
「何よ。言っておきますけどね、サーシャは絶対にアナスタシア王女じゃないのよ。だってあの子は――」
「わかっていますよ」と、キリルは言った。「お嬢さん、出会ったのが私でよかったですね。私でなければ殺されていましたよ」
ヴィーカはキリルが手にした拳銃を見て、身をかたくする。
「なによ。脅しにはのらないわよ」
「リトヴィスはアナスタシア王女を救出するつもりで捜索隊を出したのではありません。見つけ次第、殺すつもりだったのです。王女を名乗るものは皆、殺されました。一昨日、公式に国王と王女の死が宣告されるまで――。リトヴィスはアルトランディアの王位継承者を根絶やしにするつもりだったのですよ」
「なっ……」
にわかに信じられず、ヴィーカの頭は混乱した。それが事実なら――サルティコフ大公は自分が王女でないことを知って、受け入れたのだ。最初から捨て駒にするつもりだったということだ。
キリルはヴィーカに言った。
「あなたも薄々あの子が何者か気づいているんでしょう! 協力してください! 一刻も早く保護しなければならないのです」
「保護? ……あなたがリトヴィスの手下じゃないっていう証拠はないわ。あなたもサーシャを殺すつもりじゃないの?」
キリルはヴィーカの問いには答えなかった。
***
その頃、突然の訪問者にヴィターリーは困惑した。
劇場の舞台のピアノを弾こうと思っていたとき、一階中央の観客席の扉がバンと開かれた。
「あなたがヴィターリー・ヴォルホフですか? 音楽祭のため出国証明書を申請していた?」
「ええ、そうですが……」
舞台に歩み寄ってきた男は市庁舎の人間とは違っていた。
立ち居振る舞いが軍人だった。そんな人間がわざわざ劇場まで出向いてきたことにヴィターリーは嫌な予感がした。出国査証の受け取りには二日かかると言われたはずだった。
「もう一度、身分証明書を拝見できますか?」
軍人はヴィターリーの旅券を要求した。
「ほう、珍しい青印がついているのですね。偽造旅券でなければ、あなたはよほどの身分の高い音楽家とお見受けします」
「どんなご用件でいらしたのですか?」
「いや、最近、偽造旅券が数多く出回っておりましてね。音楽祭参加というようなとってつけた口実で国外に逃げようとするものも多いんです。あなたの申請内容が正しいかどうか確認に参りました。アルトランディア国を代表して音楽祭に向かわれる方の実力がどれほどのものか。出国を前にこちらの方に審査していただきたいと思いましてね」
男の背後からおずおずと老婦人が進み出た。目があった瞬間、お互いに「あっ」とわずかに声をあげた。
ユヴェリルブルグに着いた初日、教会の入口前で会った初老の婦人だった。教師と名乗っていたが、音楽院の教師だったのか。
「リュドミラ・Bと申します」
その名前には聞き覚えがあった。王室劇場の人気歌手、クセニア・クロチキナの教師だ。
「こちらのヴィターリー・ヴォルホフ殿は音楽家とのことですが、音楽院で面識はありますか?」
ヴィターリーの背中に冷たいものが流れた。
「いえ、私は声楽科の学生しか知りません。学生全員を把握しているわけではありませんので」
婦人はヴィターリーを庇うように言った。
「そうですか、まあ、いいでしょう。音楽祭に行かれるのですから、それは素晴らしい腕前なのは間違いありませんね。よかったらひとつ、お聞かせいただけないでしょうか」
ここで初めてヴィターリーは自分の立場を理解した。
ミーチャが自分に用意してくれたものは、偽造旅券だったのだ。
なんとかしてこの場をごまかさなくてはならない。ピアノは弾ける。ここ数日まともに弾いていないけれど、指は動くだろう。
だが相手は耳の肥えた音楽院の教師だ。そんな人の前で演奏できるわけがなかった。自分は音楽学校の試験にすら落ちた人間なのだから。
「さ、どうぞ」
「ま、待ってください。まだ準備ができていないんです。このピアノは調律もできてなくて……」
ヴィターリーはピアノの蓋を開き、鍵盤を叩いた。三度の和音を弾くと、耳障りな、よれた音が出た。
しかし男はひかなかった。
「リサイタルを行えと言っているわけではありませんよ。練習を少しでも聴けば、耳のある方はそれが本物とすぐにわかるでしょうから」
ヴィターリーの体が震えた。万事休すだった。
自分が勝手に動いたのがいけなかったのだ。ミーチャがせっかくとってくれた旅券を――彼の思いを台無しにしてしまった。それだけでない。自分が捕まったら、ミーチャにも害が及ぶことになる。それだけは避けたかった。
だが、この場をどう切り抜けていいのかわからない。
もはやこれまで――。そう思ったときだった。
「市庁舎の方ですか?」
凛とした声が舞台に響いた。
舞台の裾からヴィターリーの前に進み出たのは、サーシャだった。
走ってきたのか顔が上気している。サーシャは靴の泥を落としながら、舞台に上がった。
「わざわざお越しくださってありがとうございます。音楽祭には私も招待されたのですが、旅券と旅行許可証が再発行できず、国境で足止めになっていたのです。至急、発行をお願いしたいのですが」
サーシャは音楽祭の招待状を男に差し出した。
ヴィターリーのトランクに入っていた招待状だった。
「本状で三名まで参加できる。なるほど――音楽祭の招待状は本物のようだ。そういえば、もう一人の旅券の消失届けが出ていましたな。一緒に行く予定だったのですか?」
「ええ。旅券再発行が間に合わなければヴィーチャが先に行き、私は旅券が手に入り次第、あとを追う予定でした」
サーシャはにっこりと笑い、ヴィターリーの脇をつついた。
「そ、そうです、私たちは一緒にドイツに留学する予定だったんです!」
ヴィターリーはサーシャに調子を合わせた。共にドイツに行くのは嘘ではない。
「では、ずいぶんお若いマドモアゼル、あなたも演奏家なんですね? あなたは何ができるんです?」
「歌を――」
サーシャはくっと頭をあげた。
「歌を歌います」
歌う前に、サーシャは水差しにあった水を一気に飲み干した。
ヴィターリーは勢いに押され、サーシャの行動を止めることもできなかった。
わかっているのか。この老婦人は音楽院の声楽科の教授なのだ。生半可な歌ではすぐに見抜かれてしまう。その声が出なかった。
舞台――。
サーシャは目を閉じ、舞台の中央に進み出た。
アナイ・タートが憧れてやまなかった舞台だ。
いつだっただろう。
「アルトランディアの王室劇場の緞帳は全部青いのよ」と機嫌がいいときに語ってくれた。
「王室劇場とほかの劇場は何が違うの?」
「……立ったときにわかるわ」
歌いたいと思った。アナイ・タートのように。舞台に立ってみたいと思った。だけど職業歌手になりたかったわけではない。
舞台はやはり、アナイ・タートのような人間が立つべきところだ。
歌は好きだ。しかしアナイ・タートほどの才能も思い入れもない。舞台に立ちたいと思ったのは、そこから見る景色を見たいと思ったからだ。
アナイ・タートの目は一体何を見ていたのだろう。
黒髪と黒いドレスのアナイ・タート。最後に見た彼女は、本当に美しかった。
どうしてあのとき、言葉をかけなかったのだろう。どうしていつも、疑念に思っていたことを訊かなかったのだろう。どうして、王女に進言してしまったのだろう。
自分が黙っていれば、アナイ・タートは王室劇場で歌わずにすんだかもしれないのに。
アナイ・タートは――。
彼女は王室劇場の舞台に立てたのだろうか。歌えたのだろうか。
無性に聴きたかった。音楽を。歌を。アナイ・タートの声を――。
彼女のように歌えるかどうかわからない。
でも彼女の歌を再現できるのは、きっと誰よりも彼女のそばにいた自分だけだ。
アナイ・タートの声であれば、ヤローキンはきっと自分を発見してくれる。そう思って、広場でも歌い続けた。
ヤローキンはとうとう来なかった。
だけど、神様。どうか、今、私に力を貸してください。この喉があと少し、もつように。
そして、どうか、もう一度、アナイ・タートの歌を聴かせてください。
祈ったあと、サーシャは目を開き、皆に告げた。
「ヘンデルのオペラ『リナルド』のアリアを」
そして、アカペラで歌いはじめた。
そのときの衝撃を、ヴィターリーは生涯忘れることはなかった。信じられないような美声と声量に、身動きすらできなかった。
サーシャの声が――戻ってきたのだ。
サーシャは自分から放出される音を、どこか冷静な気持ちで聞いた。
アナイ・タートはこのアリアをよく歌っていた。ヤローキンは自分に対するあてつけだと苦笑した。ああ、今になってその歌詞の意味がわかるなんて――。
過酷な運命に涙し
自由に憧れることをお許しください
私の苦しみに対する憐れみだけによって
苦悩がこの鎖を打ち毀してくれますように
劇場内にいた人々は皆、この華奢な体から溢れる音楽に打ちのめされた。
美しいだけでない。憂いをおび、艶があり、自由自在に感情を操る声。
観客席の音楽教師リュドミラ・Bも舞台に釘付けになっていた。彼女がわずかに「タチアナ……」と漏らしたのに気づく人はいなかった。
劇場に着いたミーチャはわけもわからず溢れてくる涙を抑えることができなかった。はやく舞台に行って、事態を告げなくてはならないのに。歌を聴いている場合ではないのに。
これは奇跡なのか。奇跡を見ているのか。
ここにいるサーシャは一体何者なのだ。切ないまでの哀しい歌声で人間の感情を歌いあげる。
年齢は関係ない。彼女は歌手だ。本物の。
拍手をすることも忘れた観客席をよそに、サーシャは更に歌い続けた。
アナイ・タートに教わった歌。ヤローキンの歌。続けざまに歌い上げた。もう誰も止めることはできなかった。
それから王女が練習していた『乾杯の歌』。
――歌ってごらん、歌いたいんだろう。
アナイ・タートの声がどこかで聞こえた。
――あの子は歌いたいんです。歌わないと生きていけない人種がいるんです! 私のように――……。
アナイ・タートの『乾杯の歌』がサーシャの頭の中を駆けめぐる。アナイ・タートの顔と、それからアナスタシア王女の顔も。
――プショークって言われたら、ニャーって答えるのよ。
自分とよく似た外見の、気分屋の王女。
――私、最後がうまく歌えなかったの。音程をはずしたところもあった。それなのに皆はうまいと言うのよ。そう思うんだったら皆の耳が腐っているんだわ。
――無事に帰ってきたら、……大公夫人の歌がどうだったか、聞かせてちょうだい。
この世の命は短く 空しく過ぎてゆく
ねえ だから今日も楽しく過ごしましょう
このひと時は ふたたび来ない
そのうちいつか過ぎてしまう
若い日は夢と はかなく消えてしまう
ああ この世の命は短く 空しく過ぎてゆく
またと帰らぬ日のために盃を上げよ
こんな陽気な音楽なのに、高級娼婦ヴィオレッタの歌う歌詞はこんなにも哀しい。
最後にサーシャは幻の『国王賛歌』を歌った。
サビのメロディーは有名で、アルトランディア国民であれば皆知っている。
しかし原曲の全体像を知るものは少ない。ヤローキンの最高傑作。
この曲を歌いこなすには、圧倒的な技量が必要だった。王室劇場のソプラノ歌手クセニア・クロチキナですら、歌えなかった歌。それは――。
出だしから、高音のコロラトゥーラが響き渡った。縦横無尽に音が展開される。
無茶だった。こんな音など、ありえるはずがない。自由奔放すぎる。
ヴィターリーは驚愕した。こんな声を出せる歌手などいるはずがない。
下手をすれば喉をつぶしてしまう。唱法だけではない、表現力がなければ歌いこなせない。言葉を伝えられない。
並の作曲家ならこんな途方もないような曲は書かないだろう。歌える人がいないのだから。
ヤローキンは知っていたのだ。彼女ならそれができると――。歌える歌手がいたから、彼女のためにこの歌を作ったのだ。
おなじみの合唱パートの部分まで、ソプラノ歌手の独断場だった。
頭に響く音を、無我夢中で追いながら、サーシャは考えていた。
舞台に立ったとき――観客席に向かって目を開けたとき、最初に飛び込んできたのは、正面のロイヤルボックスだった。
国王一家が座る席。そうだ。王室劇場ではいつもそこに国王が座る。
顔をあげると、きっとそこに国王がいる。ニコライ十世が。
若きアナイ・タートはこの歌を歌って、能力を認められた。それが彼女の運命を大きく変えてしまうことになるとも知らず。
国王賛歌は国王のための歌。アナイ・タートは国王のために、一人の男性のために、この歌を歌ったのだ。
ああ、知らなかった。この歌は、恋歌なのだ。密やかなる――。
→(次回)「青の緞帳が下りるまで #37」(第十一章 最後の歌 2)
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