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青の緞帳が下りるまで #037

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第十一章 最後の歌 2

「私はこの歌手の師を知っています」

 サーシャが歌い終わったとき、リュドミラ・Bが前に進み出た。

「なんてことでしょう。年のせいで今まですっかり忘れていたのですわ。ええ、間違いありません。この子の先生は音楽院に在籍していた声楽科のタチアナ・Lです」

 リュドミラ・Bは興奮して、男に言った。

「あなたもお聞きになったでしょう? この子はアルトランディアが誇る歌手ですわ。何なら私が推薦状に一言書き添えても構いません!」

 歌い終わったサーシャは床にへたりこみ、放心していた。

 ヴィターリーは覚悟した。この子は――とてつもない至宝だ。世に出すべきだ。なんとしてもこの子をドイツに連れて行かなければならない。
 ヤローキンの作品と共に、センセーショナルなデビューを飾るのだ。その華やかな未来が今、垣間見えた。

「ねえ……、ヴィーチャ、私はちゃんと歌えた?」

 サーシャはぼんやりと聞いた。

「ああ」

「アナイ・タートのように歌えた?」

 アナイ・タートの声は知らないが、ここで聴いたサーシャの歌は――。

「素晴らしかったよ」

 そう言うと、サーシャは微笑んだ。心から満足したような顔だった。

***

 申請書は無事に受理され、ヴィターリーは出国査証を手に入れた。リトヴィス・アルトランディア臨時政府の調査人は去っていった。
 しかし、これですべての問題が解決したわけではない。

 ミーチャの指示でヴィターリーは荷物をまとめた。ミーチャは正午に臨時列車が出るという情報をどこからか入手していた。
 急がなければならない――ミーチャは焦っていた。キリル・シェレメーチェフにかぎつけられる前に。

「次の列車はもうないかもしれない。これが最後の機会かもしれない。国王と王女の葬儀の参列者に紛れて、西欧に出るんだ」

 ミーチャの声にあおられるように、ヴィターリーは散乱した楽譜を集め、トランクに詰めた。
 劇場を出て、駅に向かおうとしていたときだった。

「大変よ! 外を見て!」

 ヴィーカが息せき切って、部屋の中に入ってきた。
 皆、劇場ロビーの窓から外をのぞいた。
 劇場の前に一台の馬車がとまった。リトヴィスの国旗が掲げられていないところを見ると、アルトランディア王国の馬車であるようだった。
 その馬車に続き、到着した警備兵がぞくぞくと劇場を取り囲んだ。そのものものしいの数に、一同戦いた。
 これは一体なにごとなのだろう。

「サーシャを捕らえにきたんだわ!」

 そう言って、まっさきに動いたのは、ヴィーカだった。

「その服を貸して。逃げなさい。早く! 私のコートを着るのよ!」

 ヴィーカはものすごい剣幕で怒鳴り続け、服をはぎとろうとしたが、窓の外を見つめたまま、サーシャは動かなかった。
 馬車からゆっくりと、杖をつきながら、一人の老人が降りてきたからだ。兵はその人の前で道を開けた。威厳のある人物だった。

 誰もが魔法にかかったかのように、その場を動けなかった。
 軍人を従えながら、まっすぐ楽屋に入ってきたその人に対し、ミーチャは敬礼した。

「サルティコフ大公閣下!」

 その人は杖をつき、まっすぐにサーシャに向かって歩いた。

「お迎えにあがりました」

 顔の半分が麻痺したその老人は喋りにくそうに口を動かした。
 隣には、キリル・シェレメーチェフ中尉が立っている。
 皆はサーシャの顔を見た。
 サーシャは軽くうなずき、大公のさしだした手をとった。
 大公はサーシャの手をおしいだき、跪いた。
 サーシャは少し、驚いた顔をしたが、何も言わなかった。誰も何も言えなかった。
 サーシャは大公に伴われ、まっすぐ馬車に向かっていった。

 まっさきに魔法がとけたのはヴィターリーだった。

「待ってくれ」

 軍人たちに囲まれ、劇場の廊下を歩くサーシャに向かって、ヴィターリーは叫んだ。

「ミーチャ、どうして誰も止めないんだ! サーシャ! サーシャ! どういうことなんだ! これは一体……」

 サーシャに駆け寄ろうとしたヴィーチャは、軍人に行く手を阻まれる。

「ヴィーチャ、時間だ。列車に遅れる。中央駅まで送っていくよ」

 ミーチャの声はヴィターリーには届かなかった。ヴィターリーの頭は混乱した。
 おかしいじゃないか。私たちはこれからドイツに行くことになっている。欧州で成功をおさめるのだ。ヤローキンの楽譜とヤローキンを歌う歌手と共に。
 成功が約束されているのに、サーシャは一体どこに行こうというのだ。
 サーシャは何もかもわかっていたかのようにすべてを受け入れた。ヴィターリーのほうを振りむくこともなかった。

***

「なぜあの青年を助けたのですか?」

 歩きながら、大公はサーシャに聞いた。

「なぜだろう。ヤローキンが好きだと言ったからかな」

「それだけで金貨まであげてしまうとは」

 大公は苦笑する。

「あの青年は至宝の意味もわかっていないのですが、よろしかったのですか?」

「私が保証する。彼は必ず、至宝になる。アルトランディアの未来のために、夢を託したかった」

「それで青年の手紙に細工をしたのですか?」

「細工?」

「ヤローキンからの偽の手紙のサインに、オキシペタラムの花を描き入れた。あなたでしょう? 至宝は皆、サインの隣にオキシペタラムの花の印を入れる。旅券の再発行手続きにきたあの青年の荷物を検査したときに、本物のヤローキンの手紙が出てきて、私の部下が驚いたそうです。おかげであなたの居場所が確定できましたよ」

「ヴィーチャは私が落書きしたと思ったかもしれないな」

 思い出したように笑った後、サーシャは表情をあらためた。

「大公、ラジオのニュースで国王一家と劇場火災事件で亡くなった人たちの葬儀が、王都で行われるというのを聞いた。ヤローキンはもう……」

「ヤローキンはまだ死んでいません」

 大公はきっぱりと言った。

「口惜しいですが、やつは不滅なのですよ」

 サーシャは大きな目を見開き、大公を見つめる。

「あの青年が生かしてくれるのでしょう?」

 大公の言葉に、サーシャは大きくうなずいた。
 ああ、そうか。ここで待つように言ったヤローキンは正しかった。
 出会いは、運命だったのだ。

***

「待ってくれ。サーシャ! サーシャ!」

 サーシャとサルティコフ大公を乗せた馬車が出たあとも、ヴィターリーは一人、雪の中を追った。
 彼に対して手荒なことをしようとした軍人を、大公はとめた。
 馬車の窓から顔を出し、サーシャは叫んだ。

「ヴィーチャ、宣言する。きみは至宝だ。きみがヤローキンの音楽と共にあらんことを!」

 それがヴィターリーが最後に見た、歌姫サーシャの姿だった。

 ***

 サーシャは馬車の小窓を閉める。
 もうヴィターリーの姿は見えなかった。

「……お迎えが遅くなりました。ご無事で何よりです」

 かつて主人と呼んだ人。自分の父親だと噂された人物――サルティコフ大公は静かに微笑んだ。
 聞くまでもないことだが、サーシャは確認せずにはいられなかった。

「大公には私の居場所なんて、とっくにわかっていたんだね」

「ヤローキンの劇場に行くことは予想がついておりました。ただ、殿下の行動はかなり目立っておられましたから、軍に囲まれたわが屋敷にいらっしゃらなかったのは賢明でした。屋敷ではお守りすることはできなかったでしょうから」

「ケバブ売りは大公の部下? 顔に見覚えがあったよ」

「もちろんです。あの劇場も、角の食料品店もわしの手のものが張っておりましたよ。護衛としてミーチャに行かせましたし、万が一の身代わりで偽王女もご用意しました」

「用意周到なことで」

 サーシャは苦笑する。
 いつもこの大公の手の平の上で踊らされている。国王も、王女も、自分自身も。
 馬車に揺られながら、サーシャは窓から流れるユヴェリルブルグの風景をぼんやり眺めた。

「王都で国王と王女の葬儀をしてきました」

「そう」

 アナスタシアは――結局、助からなかったのだろうか。
 耳に残って離れない彼女の声――。

 ――行きなさい。大公夫人ははあなたの――なんだから……。

 サーシャは向かいの席に座る大公の顔を見る。今なら、聞けるだろうか。いや、聞いておかなければならない。

「大公、王女はアナイ・タート、いえ、タチアナ・Lは私の母親だと言っていました」

「ええ、真実です」

「タチアナは大公夫人と名乗っていましたが」

「……その呼び名が必要だったからです」

「私はあなたの子供ではなかったんですね」

 知らず知らずのうちに目からあついものがこぼれでる。
 大公はそれに気がついたが、何も言わなかった。

 ――大公夫人はあなたの――母親なんだから……。

 ふたたび、サーシャの脳裏にアナスタシア王女の声が響いた。途端、そのときの彼女の顔が思い出された。
 彼女はどんな気持ちでこの台詞を言ったのだろう。

 サーシャは心の中に浮かぶ王女に話しかける。

 王女、その一言で私はわかってしまったんだ。あなたの愛情も、苦しみもすべて。
 わがままなあなたは、私のためにひとつ優しい嘘をついた。
 アナイ・タートは確かに私の母親だ。だけど、あなたの母親でもあったんだ。不機嫌そうなときのあなたの目つきはアナイ・タートとそっくりだった。その声も。赤の他人の声が、あれほど似るはずがない。
 あなたともう一度、会いたかった。会って話したかった。お礼が言いたかった。
 彼女は飼ってもいない、ネコのための餌を用意しておいてくれた。
 その感謝も伝えられない。

 涙を服の袖でぬぐうと、サーシャは大公に聞いた。

「アナスタシア王女は弟の存在を知っていたのかな?」

「いえ。緘口令が敷かれていましたから、知っていたのは王宮では陛下と亡き王妃陛下、タチアナ、そして私の四人だけです」

「クーデターのことは?」

「それはわかりません。リトヴィスの情報網の中で事前に知っていた可能性はありますが、知っていたら王宮で亡くなることもなかったと思います」

 いや、違う。きっと――知っていたのだ。サーシャは確信した。
 最後の日に会ったときの彼女の狼狽具合がそれを物語っていた。だからこそ、彼女は弟を宮殿から逃がそうとしたのだ。自分の命と引き換えに。
 それが国王の意志であったのかもしれない。万が一の事態に先んじて鏡の館に集めた国の至宝。そこに最愛の人たち、息子を――入れて守る。そのための鏡の館だったのだ。

「大公は劇場爆破の難を逃れたのに、なぜこの国に残ったんですか?」

「お父上のニコライ十世に頼まれておりましてね。王位に就くかわりに何があっても至宝を助けろと。それと――」大公は窓から流れる景色に目を移した。「最後まで見届けたかったからですよ」
 アルトランディア王国の行く末を。――悲劇の恋愛の先を。

 大公はサーシャを力づけるように言った。

「あなた様は王女と同じ、義務を果たされた。国王賛歌のとおり、アルトランディアの至宝を守られたのです」

 大公はサーシャに笑いかける。
「さ、最後に残ったものは責任を果たしに行かねばなりません」

 ***

 中央駅に着いたヴィターリーは押し込められるように列車に乗せられた。
 真相を教えてくれる人は誰もいなかった。時間が圧倒的に足りなかった。説明する時間も、説明を聞く時間も。気持ちを納得させる時間も。別れを交わす時間も。
 プラットホームではミーチャとヴィーカが並んで手をふっていた。

 その光景に一瞬、ミーチャが村を離れたときのことが思い出された。
 あのとき、自分は見送る側だった。姉のヴィーカと列車のホームでミーチャに手をふった。
 ヴィーカはずっと泣いていた。ミーチャに人殺しになってほしくないと言っていた。
 それは本心であるのだろう。だが、本当のところは違う。
 ヴィーカはただミーチャにそばにいてほしかっただけなのだ。それと同時に、自分がミーチャの足かせになっていることにも気づいていた。
 ミーチャと別れた後、ヴィーカは数え切れないほど後悔した。
 ミーチャに人殺しになってほしくないなんて、あのとき、そんなことを言うつもりはなかったと。

 言葉というのは、どうして難しいのだろう。ヴィーカの胸の中にはミーチャへの思いがあふれていたのに、肝心なときに言葉にならなかった。
 それは今のヴィターリーも同じだ。
 ミーチャにヴィーカの思いを伝えなければならない。ミーチャがこれまでヴィーカやヴィーチャに尽くしてくれたことへの感謝も。

 そう、ヴィーカは言っていた。
 ミーチャには一日も長く生きてほしい。その日は幸せであってほしい。
 なのに気が焦れば焦るほど、何も言えなくなった。

 プラットホームは人でごったがえしになった。乗車券を持っていない人でも、プラットホームには入ることができる。その人たちが無理に列車に乗ろうとして、軍人たちと一悶着あった。

 その騒動の中、プラットホームに立つミーチャと王女はヴィターリーに手をふった。
 二人とも笑顔だった。その笑顔に後押しされるようにヴィターリーも手をふった。

 ――この世に幸いあれ。

 いつしか列車の中の人たちはヤローキンの聖歌を歌っていた。
 それに合わせ、ヴィターリーも口ずさんだ。
 お別れの言葉のかわりに。

 これが二人と会える最後になるとは思わなかった。ヴィターリーの留学期間は三年。三年後にはアルトランディア王国に帰れると思っていた。

***

 ベルリン中央駅に着くと迎えのものが来ていた。
 事前に国外に逃れていた鏡の館の住人たちだった。
 彼らは最後に到着した人間が、サーシャでないことに何も言わなかった。

 留学手続きが整うまで、ヴィターリーは画家のイェルグスに世話になった。彼の下宿先でラジオを聞いていたとき、サルティコフ大公がリトヴィスに全面降伏をし、国土の一部をリトヴィスに委譲するつもりであるとのニュースが入った。
 そのときの状況は、後世の歴史家が詳しい。

「わしはこのとおり病弱ですので、次はこの子供に継がせようと思っております」

 時期国王を名乗るよぼよぼの老人が十二、三歳の男の子を連れ、王都を占領していたリトヴィス軍の前にあらわれたという。
 そのとき首都は一万人の死傷者を出し、荒廃していた。

「リトヴィス軍をアルトランディアから撤退させてください。王都は内乱で混乱し、国民は怯えております。撤退してくれれば、アルトランディアは東のヴォストク鉱山一帯をリトヴィスに委譲いたします」

 病みやつれた老人が病躯をおして命乞いにきたことは、リトヴィス軍司令官の心を動かした。それに願ってもない条件だった。軍費をかけることなく、最大の目的のヴォストク鉱山が手に入るのだから。

 平和不可侵条約はまず、仮条約の形で結ばれた。

「リトヴィス軍が王都から兵をひくのが先です。でなければ調印しません。こちらはアルトランディアの魂の拠り所をお渡しするのですから、そのくらいしてもらって当然でしょう」

 そこで軍部は国境の兵をのぞき、軍を撤退させた。もっとも、リトヴィス側からすると、それは一時的、形だけのことだった。
 兵がひいたことを確認すると、老人は同行した少年の名で不可侵条約に調印させた。その子供はアルトランディア王国最後の王位継承者だった。

「わしはこの体ですので、いつ何時この世を去るやもしれません。私の名前で調印してじきに無効になるより、次の国王の名の方が確実でしょう」

 少年は「国王サルティコフの息子、アレクサンドル」と署名したという。

 つまりこの子が即位したときにはヴォストク鉱山は確実に、リトヴィスの手に落ちてしまう。

 このことを知るや否や、アルトランディア国内ではサルティコフ大公殺害を求める声が高まった。しかしみすみす殺されるような大公ではなかった。そして大公は誰よりもしたたかだった。

 彼は病弱を理由に、のらりくらりと即位式を引き伸ばした。そのため、いつまでたっても鉱山はリトヴィス軍のものにならなかった。

 業を煮やしたリトヴィス軍から再三の要請があっても、「この体ですからなあ……。まあ、そのために時期国王に署名させたのですから、どうぞご安心ください」と、寝台の上から回答したという。そこで彼はずっと世界情勢を眺めていたのだ。
 そうしてこれ以上、待てないとリトヴィスが判断し、軍をさし向けるやいなや、大公は王位を辞退した。驚くほどの潔さだった。手回しはすんでいた。

 アルトランディアは王政から共和制に一夜にして変貌したのだった。
 条約文書を手にリトヴィスの代表者が訪れたが遅かった。即位していないサルティコフ大公は国政に対し、なんら権限を持っていない。しかも嘘か真か大公は危篤状態で面会謝絶だという。

「では、大公の子供だというアレクサンドルを出せ!」と司令官が訴えたとき、アルトランディア共和国の副首相、キリル・シェレメーチェフは小首をかしげたという。

「アレクサンドルなどという子供はサルティコフ家におりません。戸籍にものっておりませんが、どなたかとお間違えですか?」

 リトヴィスは大軍を差し向けようとしたが、もはやアルトランディアという小国に構っていられる時勢ではなくなっていた。

 一九一四年六月二十八日、フランツ・フェルディナント大公が、サラエボで暗殺されたことにより、第一次世界大戦が勃発。リトヴィスはこの大戦に巻き込まれることになる。

 この戦争はドイツに逃げたアルトランディア人たちにも影響する。祖国への道が閉ざされた鏡の館の住人たちは、新天地を求めてドイツを離れた。あるものは北米へ、あるものはアジアへと。再会を誓ったが、二度と会うことはなかった。
 二つの大戦の間、皆は生き延びることだけで精一杯だった。
 戦局は悪化し、世界は音楽どころではなくなった。

 リトヴィスはその後、アルトランディアを支配下におき、鎖国政策をとることになる。
 アルトランディアの国内の情勢を知ることは、ほとんど不可能になった。

 それでもヴィターリーは、サーシャが歌った歌を楽譜に書きとめることをやめなかった。
 ラジオから流れる各国の情報に耳をすましながら。
 サーシャに感謝したいことがあった。
 彼女はこっそりと国王賛歌の楽譜をトランクにしのばせておいてくれたのだ。
「親愛なるヴィーチャ」の但し書きとともに。

「きみの作品は完全な駄作と言われないように成功を祈る」

 そのインクは色褪せ、最後には「ヤローキン」と「きみの作品は完全な駄作」という文字しか残らなかった。

 海外の音楽祭でその国王賛歌を試演したところ、即位式に参列した元ロシア大使が確かに本物のヤローキンの国王賛歌だと証言した。
 またその楽譜の筆跡も、偶然発見されたヤローキンの別の楽譜のものと一致し、ヤローキンの直筆、すなわち本物だと鑑定された。

 ヤローキンからの手紙に、なぜか五角形の、星印のような模様が描き入れられていた。
 これもサーシャの落書きかもしれない。劇場の楽屋の壁に、それぞれの名前のイニシャルを入れたときも、サーシャはそこに同じような模様を描いた。
 落書きを怒る気にはならなかった。それこそ、サーシャと一緒に過ごした時間の証拠なのだから。

 もしかしたらサーシャは、ヤローキンのところで写譜をおこなっていたのかもしれない。おそらく、ヤローキンには何らかの理由があって、大曲を作る時間がなかったのだろう。いや、作ったのかもしれないが、それは焼失してしまった可能性がある。

 そこでヴィターリーは、サーシャが残した断片のような旋律を、ヤローキンのものとして、交響曲に編曲しなおした。

 海外で多くの歌手にも会った。サーシャより技巧に優れた歌手もいた。美声の歌手もいた。が、皆ヴィターリーの心を満足させることができなかった。
 彼女が敬愛していたアナイ・タートがどれほどの歌手であったかは知らない。

 だが、ユヴェリルブルグで会ったサーシャを超える歌姫には、まだ出会えていない。

→(次回)「青の緞帳が下りるまで #38」(終章 1)


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