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青の緞帳が下りるまで #29

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 第九章 乾杯の歌

「おはようございます。マエストロ」

 公演の当日。劇場入りしたマエストロにマルーシャがお茶を運ぶ。マエストロに会うまでには何度も身分証の検査があり、護衛の兵に所持品を見せなければならなかった。
 この日も朝からリハーサルが入り、マエストロのスケジュールはびっしりつまっている。
 しかしマエストロは楽屋にこもり、ある人との対話を希望していた。あくまで非公式で。
 マルーシャはその人からの伝言をマエストロに伝える。

「楽屋で、四時だそうです」

 イーラの訪問は――という言葉を省略したが、マエストロは理解したようだった。
 イーラの祖父とマエストロが古い知人であることは、マルーシャも聞いた。けれどあくまで内密にしなければならない。

 イーラと一緒に取材に来ているアンナという記者は、イーラが突然いなくなったことに不快感を示していたけれど、おそらくイーラはものすごいスクープを手に入れることだろう。
 楽屋に通じる秘密通路があるなど、劇場勤務のマルーシャ自身、知らなかった。

「あの、マエストロ」

 マルーシャはマエストロにお茶を出すついでに話しかける。

「今夜の公演のプログラムですが、アンコールに予定されている曲はありますか?」

 マルーシャはマエストロに言い添える。

「お手数なのですが、事前に知っておけましたら、こちらでも何かと準備できますので……。その、マスコミ関係の方にも説明できますし」

「ヤローキンの聖歌でしょうか」

「そうなのですね。皆が喜びます」

メモをとるマルーシャにマエストロは言う。

「アルトランディアの観客の方たちと一緒に盛り上がるには、ヤローキンの聖歌が一番でしょうね。それともう一曲、もしかしたら乾杯の歌を演奏するかもしれません」

「といいますと、オペラ『椿姫』の?」

「ええ」

「どういった理由からか、うかがってもよろしいですか?」

「私の昔の知人が、昔、鼻歌で歌っていたんですよ。天才的な歌唱力の持ち主でした。今現在、生きているかどうかわかりませんが――観客席に来ていたら、その人の歌声が聞けるかもしれないと思ったんです」

「どんな方か、うかがってもよろしいですか」

 マルーシャは好奇心から聞いてみた。

「詳しくはわかりません。名前も――本名は知らないのですよ。もしかしたら、サルティコフ大公家縁の人ではないかと思いますけど、大公家の方は存命ではいらっしゃらないのですよね」

「そうですね。最後の大公は亡くなられましたし」

「ですね」

 マエストロはイーラから預かった台本の表紙に、もう一度目をやった。


 ***

「何なんだこれは――」

 サルティコフ大公に託された台本を読み終えたミーチャは面食らった。大公が傑作だと評した、台本だが、ここにサルティコフ大公個人のメッセージはどこにも書かれていない。
 しかし、驚嘆するべきはその内容だ。

(これが大公が伝えたかったこと?)

 サーシャを捜しに行ったが、劇場内はもぬけの殻だった。
 買い出しに出たはずのイーラも、ヴィーチャもまだ劇場に帰ってきていなかった。
 この内容が事実だとすれば、大変なことだった。

 愛称で書かれてはいるが、読む人が読めば、誰のことか容易に推察できる。
 コーリャはニコライ十世。ソーニャはソフィア王女。ターニャはタチアナ……。そうだ、タチアナ・Lという歌手だ。公爵はサルティコフ大公その人。
 タチアナ・Lは男女の双子を産んだ。女の子は王妃が産んだ子として、王宮で育てられた。

 もう一人の男の子は――。

 ミーチャは戦慄を覚えた。
 あの人をくった大公の言葉は信じがたいが、この台本が真実であるのなら、アルトランディア王家にはもう一人、サルティコフ大公以外に正統な王位継承権を持つ人間がいる。
 アナスタシア王女の双子の弟が――。

(まさか)

 ミーチャは劇場の外に飛び出した。

 ミーチャの予想通り、サーシャは、駅前広場にいた。
 新年を迎えた後も、クリスマスツリーは一月いっぱいまで飾られる。
 寒空の下、さすがに歌ってはいなかったが、サーシャは列車の止まった駅の方向を見つめていた。そこでヤローキンを待っているのだろうか。亡くなったと伝えても、サーシャはヤローキンは生きているといって聞かなかった。
 サーシャの髪にはうっすらと白い雪が積もっている。

「捜したぞ」

 ミーチャはサーシャの腕をつかむ。氷のような冷たさが、手袋越しに伝わってくる。

「こんなところにいると、風邪を引くだろうに。それでなくとも王女の捜索隊に見つかって……」

「もう王女の捜索はないはずだよ。それに――私は王女じゃない」

 そう叫ぶと、サーシャはミーチャの腕を振りほどいた。
 サーシャは嘘をついていない。そう、彼女は王女ではない。
 サーシャの口からこぼれる息は、白かった。

「さっき教会で祈ってきた。でも声が……でない。祈っても、祈っても戻ってこない。神様は罪人には歌わせてくれない。アナイ・タートを殺した私には、歌う資格がない。もう二度とアナイ・タートみたいに歌えないんだ」

「なにを言っているんだ。ちょっと風邪をひいたくらいで」

「風邪が治っても、だめなんだ。今日より明日、明日より明後日、どんどん高音が出なくなる」

 ミーチャは目を見開き、サーシャの顔を見た。
 こんな服装をしているからわからなかったのだ。
 アルトランディアの女の子の典型的な髪型に、白いワンピース。
 だけど、まじまじとその顔を見ると、兆候はあった。

 どうして気がつかなかったのだろう。サーシャの正確な年齢はわからないが、十二、三歳だろうか。だとしたら、声が出なくなるのは自然の摂理だった。これからますます、サーシャの望む声はでなくなる。

「……心配しなくていいよ。言っただろう? 私は国外には行けない。こんな声では、ヴィーチャと一緒にドイツなんて行けやしない」

 サーシャは自嘲ぎみに笑った。
 ミーチャは自分のかぶっていた帽子をサーシャにかぶらせる。大きすぎるが、雪よけにはなるはずだった。

 ミーチャはサーシャの腕をとる。守るべきは、偽者のアナスタシア王女ではなく、このサーシャだったのかもしれない。
 どこかあたたかい場所につれていかないといけない。この場にいるのは自殺行為だ。

「なあ、サーシャ、そろそろ、お互い、腹を割って話したほうがいいと思うんだ」

 さりげなくそう言うと、サーシャもうなずいた。

「そうだね。私も聞きたいことがあったんだ」

 サーシャはミーチャの顔を見上げた。

「ねえ、どうしてヤローキンのふりをして返事を書いたの?」

 サーシャの目の色はぞっとするほど青かった。冴え冴えとすみわたる青色はミーチャの心を突き刺した。ヴォストク神に愛された、アルトランディアの色だった。

「隠しても無駄だよ。ヴィーチャが持っていたヤローキンの手紙を見たんだ。あれはヤローキンの筆跡じゃない」

「なぜわかっ……。いや、君はわかるんだったな」

 サーシャはうなずいた。ヤローキンの下働きをしていたこの子はヤローキンの筆跡を熟知している。

「初期の手紙は確かに本物だった。だけど、残りは――」

「そうだよ」

 教会の建物の前で、懺悔するようにミーチャは言い放った。

「あのバカがはやく返事をくれと催促するものだから、つい、自分で返事を書いてしまった。ヤローキンなんてそうそう会える立場の人間じゃない。王宮勤務の俺だって一度も会ったことがないんだ。そうしたら、ヴィーチャから返事の返事がきて……また返事を書いて……。キリがなくなった。あのバカがヤローキンに会いに行くって今にも王宮に押しかけてくる勢いだったから、来ないようにヤローキンの名前で警告した」

 それをヴィターリーは言葉通りに受け止めなかった。王室劇場の音楽祭が終わったら会えるものと勘違いし、時期をずらして王都に行こうとした。

「いまさら言えやしないだろ。あんなにもヤローキンを尊敬してたやつに。手紙は嘘だった……なんて」

「ヴィーチャの……ヤローキン宛の手紙は誰に渡していたの?」

「私の部下のキリル・シェレメーチェフ中尉だ。彼は貴族だから王宮の中を自由に動けた。ヤローキンがいる場所のことも知っていた。こんなはずじゃなかったんだ。何もかも――」

 自分は極秘事項をペラペラと喋るような人間ではない。だが、今は喋っておきたいとミーチャは思った。この任務を引き受けたときから覚悟を決めていた。この世に思い残すことはない。

「さあ、きみの番だ、サーシャ」

 教会の裏口に行ったミーチャは、サーシャの体にふりつもった雪を落とすと、大公の台本を手渡した。
 まわりを警戒し、声を潜める。

「ここにターニャという歌手が出てくる。国王賛歌を歌った歌手らしい。これがきみのいうアナイ・タートなのか? それなら――彼女と同じ場所に住んでいたきみは一体、何者なんだ」

 サーシャはその台本を開きもせず、ミーチャの手に戻した。
 ミーチャはサーシャに話した。

「サーシャ、きみも知っているとおり、アナスタシア王女の捜索の手が止まった。これがどういうことかわかるか?」

「……王女が見つかった」

「そうだ。遺体で……」

「ああ、神様……」

 覚悟していたのだろう。サーシャは胸の前で十字を画く。

「王都で王室一家の葬儀が執り行われると報が入った。国中が喪に服している。ヴィーカはきみが夢を見るとき、うなされていると言った。自分がアナイ・タートと、王女を殺した――と。きみは本当に……王女を殺したのか?」

 サーシャは否定も肯定もしなかった。

「きみは、王女を恨んでいたんじゃないのか? 表舞台にいる彼女が。それで……殺したんだ」

「私は彼女を恨んじゃないない!」

「俺は真面目に聞いているんだ。追っ手は、王女を殺害した犯人を捜しているんじゃないのか? きみを――」

「違う。違う……そうじゃない……」

 サーシャは体を震わせた。
 空からは雪が降ってきた。サーシャはマフラーで喉を巻きなおす。
 小さく溜息をついたサーシャは、ミーチャを見つめた。

「……私が知っていることを話すよ。きっともう最後だから……」

(次回)「青の緞帳が下りるまで #30」(展示品七 鏡の館)

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