人間としての中身はあるのかい?

私の運営するCafé de Lien*は大阪市鶴見区にある、小さなカフェ。2018年の4月にオープンしたばかりで、今年2回目の年末を迎えることができた。よく「カフェとかやってすごいですね〜」と言われたりするけど、正直ちょっとよくわからない。言われて嬉しいかと言われたら、嬉しくないのが正直なところ。
カフェというものを作るのは、事務的なことをクリアすれば、誰でもできる。「カフェとかやってすごいですね〜、私もいつかやってみたいと思ってるんです」というのもよく言われる。

え、やればいいじゃん。
って素直に思う。

その人がいう、「いつか」は多分永遠にこない。
『カフェを立ち上げる』というのは、然るべきところに行けば、やり方は絶対に教えてもらえるし、自分で調べたり書類を書いたり、(お金はある程度いるけれども)事務的な作業を繰り返せば、必ず作れてしまうのだ。しかも、私自身、別にお金が沢山あったわけではない。むしろ、今に至るまで金銭的に余裕のあった時なんて、ない。

おそらく、「いつかカフェとかやって見たい」と漠然と思っている人は、カフェそのものを立ち上げることではなく、なにか充足した日々を夢見ているのだろうと思う。“カフェを作ること”自体を追いかけても、満たされる日々は、永遠にやってこない。


ちなみに私が感じる充足感の源は、“人との繋がり” だ。
感謝を交換できる人と繋がりを持つって本当に楽しくて、自分が成長してる感がある。たくさんの体験、体感、人との関わりのなかで、自分は紛れもなく「人間」であることを実感する。今の社会は、もうすぐ作業的なところは全てロボットになり変わるとよく聞くが、世の中的に「仕事=作業」であり、それはきっと人間じゃなくてもできるからだ。


じゃあ、人間である意味って何?
ロボットと人間の違いって何?

以下、私の持論だが

ロボットは「 I (アイ)」自分、という存在が物質として存在していれば、もうそこに存在意義がある。
人間は、「 YOU (ユー)」あなたが、いることで、私が存在する。

人間の体をミクロで見れば、有機物が複雑に折り重なってできた神秘的な物体なのだろう。自分の体を作り得るあらゆる有機物を摂取し(ご飯を食べる)、文字や学問を習得し(学校に行く)、大きくなったら作業的に仕事をする。成長に必要な作業を淡々と繰り返せば、当たり前に体は成人になれるのだけれど、きっと違う。「人間」が出来上がるために必要な要素はなんなのか。

今、当たり前に子供がスマホで動画を見ている場面によく直面するのだけれど、私自身は、そこに少し恐怖を感じている。「子供が不機嫌な時に、あやすのがめんどくさい」と思いスマホを与えている親は多いと思う。動画自体を否定するわけではない。が、子育ては作業ではない。
自分の頭を使って想像力を使って楽しむことを、小さい時に経験していないと、大人になった時に、困難なことにぶち当たっても解決できない。だって、情報は一方的に与えれれるものとして、当たり前に育ってきたのだから。自ら、工夫して何かを生み出すことは、想像も及ばないだろう。

『体験』として蓄積されたものが、人間を作る。人間が、人間故に作りだせる「温度」のあるもの。その温かみに触れて、初めて人は人になる。〝絵本を一緒に読んでくれる” “おもちゃで一緒に遊んでくれる”というように、「何かを、一緒にした」という体験は無意識にでも記憶に染み付いて、じんわりと人をつくっていく。



人間として何ができるのか、みたいなことを自分のカフェでは大切にしている。ありがたいことに、今自分の店には、本当に素敵な人がたくさん関わってくれていて、感謝が尽きない。沢山の“人間”に一生懸命関われば関わるほど、心は満たされる。表面的な肩書きとか、作業としての仕事ではなく、その人であるからこその温度を感じて、何かを成し遂げて行く。人間である限り、“人間味”を増すための学びは、この命が尽きるまで続いていく。それはきっと、間違いなく楽しくて、心が踊る。

私は、今日も心が躍る。

読んでくれてありがとうございます。 ふと思った時に、心のままに書いています。 よかったらまた読んでください。