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「すき」について考える

美味しいものがすき、ふかふかの布団がすき、写真を撮りに出かけるのがすき、あたたかい人がすき、旅がすき・・・

「すきなもの」をきかれたとき、とっさに言葉が出ないときがある。私はどちらかというと何にでも興味をもって、楽しいことや好きな部分を見つけようとするのは得意。そう、直感的に合うものであればすぐに「それ好き!!」といってしまう、超絶好きのハードルが低い部類の人間だと思っている。
だからこそ「すきなもの」をきかれたとき反射的に思ってしまうのが、「好きって胸を張って言えるのってどのくらいからだろう」とか、「この人の方が好きなものに詳しかったらどうしよう」とか、無意識に相手の好きに対する「尺度」を測ろうとしてしまうことだ。(きいてる人はそこまで深い意味できいてないし、大体が会話の中でさらりと出てきて流れていくものだったりするのに。)

甘い、辛い、高い、美しい、優しい、綺麗、酷い・・世の中にはたくさんの形容詞があって、それらはすべて主観的な基準に測られていると思う。だけれど、その中でも「すき」はとくべつだと思う。すきが持つ言葉の高揚感は、その言葉でマイナスな部分も打ち消すことのできる魔法の言葉だと思っている。だからこそ、「すき」に正直にいたい!裏切りたくない!という気持ちが、その言葉を使うに失礼のないよう相手の「尺度」を測ろうとしてしまっているのではないかと思う。

「すきなもの」の理由を掘り下げていくことは難しくない。美味しいものがすきなのは、満たされて幸せな気持ちになるから。旅がすきなのは、自分の選択によって新しい人や価値観、景色、文化に出会えるから。だけれども「すき」という言葉に相応しいものを選ぶとき、個々を同じ基準で比較できない相対的なものであるからこそ、相手の「尺度」に判断を委ねてしまいがちになってしまう。

高校1年生の時、ミスチルが大好きだからという理由だけで、あだ名が「ミスチル」になったクラスの男の子がいた。(もはや本名が思い出せない。笑)軽音楽部だったその子は、ファンクラブに入り毎回ライブに行き、部活でも曲を完コピするほどの熱狂的信者だった。その子に対して「私もミスチルすきだよ〜!」とはなぜか言えなかった。当時の私は他にも好きなことやアーティストがあって、確かにミスチルは好きだったけれど、ライブに行ったこともなく、通学の時に電車の中で聞く程度だった。だから「その程度のすきなんだ・・」と思われたくなかったのだと思う。(※本人は全然そんな事言わない、穏やかで仏のような子でした。想像したら笑えちゃった!)
すきの尺度はそれぞれだから堂々と言っていいのに、当時の私はその子の「すき」を神々しいものだと思って、自分のすきを並べてはいけないと思ったのだろう。(謙虚なわたし。。笑)

それならば、どうやったら相手の尺度を気にせず、堂々と「すき」が言えるようになるのか。
答えの一つに、私は「えいっ」と決めて進むことがあると思う。決めて進むにはちょっとした勇気がいるときもあるけれど、「すき」のたのしみ方は人それぞれ。どの程度であっても「すき」が正義であるときは、それでいいと思う。

堂々といえる「すき」だけじゃなくて、自分の中の「すきなのかな?」という感情もこぼれないように大事にすくい取っていきたいと思う、今日この頃でした。


2日目なのに長くなっちゃった!
明日はもう少し軽やかなテーマでお送りしたいと思います~~!!


Miu




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