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「売った身体」の再利用と親としての役割のはざまで

「現代思想3月臨時増刊号」の貴戸理恵さん鈴木涼美さんの対談「“キラキラ”と“その後”のためのフェミニズム」を興味深く読んだ。

私は、鈴木涼美さんの言葉を借りれば、「『身体を売るのがどうして悪いかは説明できないけどなんとなく悪いと気がする』という嗅覚によってうまく落とし穴に落ちないようにして」、(いや、明確に分かっていた。そんなことをしたら「いい縁談」がこなくなる、つまり自分の「価値を下げる」からと)、わりと高めに「結婚」という制度によって売った身体を、それまで高く売っていた女性が40歳の壁を乗り越えられなくて姿を消す年齢になってから、「すでに売った身体」をリサイクルするかのように売り始め、それでも、高いうちに売れていたほどではなくとも、最高ランクの国民健康保険料を月々支払わなくてはならないぐらいには稼げて(つまり稼いだらきちんと納税しなくてはという常識を持って実際に行った)、閉経したあとも女性としての価値もそれなりに保ち続けて生きているので、喪失感みたいなものは待っていない。

若いうちに売っていたらもっと“キラキラ”した日常を経験していただろうけど、その延長線上にある今を想像してみたら、たぶん今ほど恵まれてないだろう、いやどんなに恵まれていたとしても、今横にいる子供のいない人生は考えられない、この子のいない選択をしてくてよかったのだと、“キラキラ”した人生を送ってきた人(中にはAV女優をした過去をまるっと隠して普通の主婦になっている女性も)を見るたびに自分を納得させている。

鈴木涼美さんの著書『愛と子宮に花束を』のなかで、お母さんが「売ったはずの身体が売ったはずのあとも自分のものとして継続する」ということを娘に伝えるが、それを読んだときにはその意味がよく分からなかった。しかしその身体が「かつては高く売れたのに今は価値がなくなってしまった」モノだとしたら、それはかなり厳しいものになる

筆者のように他に評価してもらえ、換金できる「能力」がある女性はいいが、「そんなに高くは売れなくなった、いつかは完全に売れなくなるであろう身体」しか売れるものを持たない、かつての同僚を思うと、“キラキラ”した思い出が有ればおるほど、現況は深刻なのだろう。

さらに、貴戸理恵さんによると、かつて「明るい不登校」を語ってきた(語らされてきた)元不登校の人たちがかなり大変な状況にあるそうだが、今また特別な成功例を元に「不登校でもいいじゃない」ブームに乗らされてしまっている子供たちの将来が心配になってくる。

最後に貴戸さんが言う「『ケアすべき存在を抱えた人が日常のなかで自由になる』ことを目指すのがリアルなフェミニズム」という言葉が、あさってから、いきなり春休みになるらしい、まだ手の掛かる子供を持つ親としてもずしりときた。

私の女としての価値のいかんに関わらず、親としての価値や責任をどう自分のなかでコントロールしていくかが、さしあたっての課題であり、感傷に浸っている時間はそんなにないのだ。

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