見出し画像

利己と利他を超越する、僕のお父さんの生き方。

「利己」というのがあります。「己に利をもたらす」と書いて、「利己」。「利」とは、得のことです。つまり「利己」とは、自らを得な気分にさせることを言います。


今年のゴールデンウィーク、僕はまるまる実家に帰りました。5日間の休みをすべて使って、お父さんとお母さんに会いに行きました。

お父さんとお母さんは、僕なんかが実家に帰ってくるのを、本当に心待ちにしていたと言います。地元で一番質の高い肉を買って、バーベキューをしようと誘ってくれました。いざ帰ってみれば、冷蔵庫の中には、僕が大好きなサッポロクラシックというビールがぎっしり詰まっていて。


(俺はつくづく幸せ者だな)と思いながら、僕はお父さんに尋ねました。

なんでこんなにもてなしてくれるんですか 僕、こんなにだらしねえのに

すると彼は、それがさも当然かのような、何一つ細工の無い顔でこう答えました。

いや、俺がやりたいと思ってやってるんだよ お前が喜ぶ姿を見るのが楽しいから、言ってしまえばこれは、全部俺のためなんだよ

僕は、この言葉を聞いてハッとしました。まさにこれこそ、人生が変わった瞬間だった。彼がたくさんのビールやドえらく高い肉を用意したのは、僕の方を向こうとして向いた行動ではなく、つまり、僕に利や得を与えるのを最大の理由として起こした行動ではなく、それは、究極の「利己」だったんです。

『俺がしたいから、そうする』と、何のてらいも無く発した彼の行動は、「お前が喜んでいる顔を見ているのが楽しい」という一見「利他」らしいのを引っさげつつも、あれは究極の「利己」であったんです。

俺がこうしたいからこうする。お前のことを喜ばせたら楽しいから、そうする。俺がしたいことをした結果にお前が喜べば、それは最高。これが、僕の父の行動原理です。僕は改めて、この人の息子として世に生まれて本当に幸せだと思いました。


人を楽しませたり、喜ばせたりすることを、自分にとっての「利」とすること。いわば、「利己」や「利他」をごちゃ混ぜにして、すべてに「利己」としての大きなラベルをべったり貼ってしまうこと。俺が楽しいからそうしてるんだ、と言ってしまうこと。僕は、これ以上に格好良く素敵な考え方を知りません。

思えば、「腹一杯でもう食えねえよ」と言った僕に対して『もっと食え!ほら、焼けてるぞ』と、焼き上がった肉をたんまり差し出してきたのも、きっとそういうことなんだと思います。あの人は、僕が喜びそうなことを進んでするんだけども、それは「利他」としての側面もありながら、実際は「利己」なのだと。

腹が一杯になった僕は、(こんなに食える訳ねえだろ アホか)と思いながらも、彼のその気持ちが嬉しくて、「いやー、ありがとう うめえわ」と言いながら無理やりに頬張って食べました。

あの人は、「利己」なんていう言葉をきっと知らないと思います。「利他」もきっと知らない。バカにしてはいないけど、ずっと不良だったらしいし。あんまりよく知らないけど。

そんな彼が行動として移す、利己と利他のごちゃ混ぜ、ひいては「究極の利己」というもの。そもそも、そんなものを考えず、まったく自然に「利他」そのものを「利己」にすげ替えてしまうこと。これは、本当に美しく、ありがたい考え方だと思います。

僕もこれから、彼のように格好良く生きていけたら良い。頭が禿げ上がるのはごめんだけれども、いつか彼のような、美しい人間になりたいです。

頂いたお金で、酒と本を買いに行きます。ありがとうございます。