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誰かや何かを嫌うなら、一人で勝手にやってくれ。

 ここ最近、意識して「嫌い」を大切にしている。「ダサい」を尊重している。身の回りの人間、あるいは自らが持つネガティブな気持ちに対して、とことんまっすぐな目を向けて注目することで、きっと人の真核が見えてくるんじゃないかと考えている。「好き」よりも、「嫌い」の方が。「イケてる」よりも「ダサい」の方が。きっとそれぞれ後者には、より人間らしい心意気が乗っているのではと思っている。

 「好き」には、一般大衆に忖度したような気概を感じるのだ。もちろん良いことであると思う。カレーが好き、UKロックが好き、小顔の女の子が好き、何だって良い。すべての「好き」は尊ばれるものであり、他者からの批判が付け入る隙を持たない。が、一部の「好き」にはなぜか、ある種の同調圧力的な属性を感じてしまう。これについては、下記の文章を参照ください。

「好き」が尊いなら、「嫌い」も等しく尊いはずだ。https://note.mu/miuranozomu/n/n2a880d25d0b9


 こうして、なるべく「好き」よりも「嫌い」を、「イケてる」よりも「ダサい」を意識しているからか、最近、身の回りから「嫌い」についての話を受けるようになった。

これ、ダサいよね すごく嫌い 三浦もそう思わない?


 正直なことを言えば、「知らねえよ」しか無い。

 僕は同調が嫌いだ。同調というよりも、同調圧力に屈するのが嫌いだ。どうしても、情けなくなってしまう。心地悪く、みすぼらしく思ってしまう。「嫌い」は良い。それも、ちゃんと言い分ありきのものであれば尚更良い。こってり思案した挙句、眼をギンギンに開いて嫌う気概はとても美しいと思う。論理的な嫌悪、整理されたヘイトは存在して然るべきだと思う。

 ただ、「その “論理” や “整理” に、人を使うなよ」と思うのである。そこに加担してくれそうな人を巻き込んで、テメエさんの旗を持ってもらうんじゃねえよ、と。自分のまわしを人に履かせて相撲を取らせるなよ、と。同調を強いるんじゃねえよ、と。

 人や物を嫌いになる時くらい、一人で勝手にやってくれ。媚びるのをやめてくれ。『三浦もそう思わない?』なんて、思っても決して口にしないでくれ。きっと俺も、勝手に嫌うよ。あなたも勝手に嫌っててくれ。自分が持つ「嫌い」に、味方として誘わないでくれ。そもそも、自分一人で嫌う勇気も持てないなら、そんな嫌悪心なんか捨ててしまえよ。みっともないよ。

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