その買い物に意図はあるか。

 毎晩酒を飲み、うだつの上がらない日々を過ごしている僕は、足りなさそうな生活費を若干無理して、フィルムカメラを買った。35年も前に発売された、FUJICAの「DL-100」という機種。建築家であり、デザイナーでもあるマリオ・ベリーニがデザインしたという。

 レンズの上部が大胆に切り取られた、ヘンテコな形。ヘンテコは言いすぎた。特徴的な形。ずっしり重厚で、僕の大きな手にぴったりフィットしてくれるグリップの形状も良い。真っ黒のボディにアクセントカラーのグリーンが映えていて、とても可愛いデザイン。

 以上からなんとなくわかるように、僕はデザインの目線でしかこのカメラを語ることができない。「目線」なんていう格好の付いた言葉はあまり使いたくないが。このカメラにどんな機能があるか、そもそも「ISO」とか「ASA」とかナントカカントカが分からない。調べもしていない。知らない。このカメラを買った理由はたったひとつ、「外に出るきっかけが欲しかった」に尽きる。

 めったに外へ出ないんである。酒の席でも無い限りは、なるべく家の中で過ごしていたい。延々タバコを吸って、たまに焼酎の水割りでも飲んで、眠くなったら寝て、腹が減れば納豆をかけたご飯のひとつで良い。最近は外食すら面倒臭くなってしまった。家の中で完結する選択肢があるのなら、絶対にそっちを選びたい。

 ただ、底抜けな飽き性の僕には、それも長くは続かないのであった。どんどん退屈になってきて、いい加減、家の中での暇つぶしも難しくなってきた。外に出なきゃ。せっかくあったかいんだし、散歩のひとつでもしなくちゃ。でも、「散歩」なんていうのはある種のくだらない言い訳であって、それは、この時期の「お花見」が「屋外で酒を飲むこと」の言い換えであるのと同じであって、僕が言う「散歩したい」なんていうのは、特別な意味なんか無いのだ。「外に出る」とまったく同義だ。

 外に出るためには、何かしらの名目が必要である。目的が。「これは散歩なんです、外出なんです」と大きな声で胸を張って言うための、何かしらが必要なんである。それを僕は、あのカメラに託した。写真でも撮っていれば、酒に酔ってフラフラしていてもなんとか職務質問だけは免れられる。最悪、中にフィルムが入っていなくても、写真を撮っているフリさえしておけば良い。これらは言い過ぎだ。

 カメラを買ったのは、「出不精の自分を改めるため」であった。例えば最近、襟付きのシャツを買い集めているのも、フリーランスでライティングを始めるにあたって新たな人々とお会いする機会が増えたからである。ちゃんとした格好でもしなくちゃ、ただただだらしなく、思いのままに酔っ払ってるだけの奴になってしまう。

 あらゆる買い物には、意図が必要だ。理由が必要だ。急な出会いももちろんあるが、その購入にもちゃんとした意図があるべきだ。なぜそれを買うのか、どうして購入するレベルまでに惹かれるのか、そういう類の思いを明確にすべきだ。ただひとつ、「毎晩酒を飲む」という点においては、その言語化・明確化がすこぶる難しいんだよなぁと、日々頭を抱えるばかりである。

頂いたお金で、酒と本を買いに行きます。ありがとうございます。