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すごく嬉しい時、僕らは「すごく嬉しい」しか言えない。

 すごく嬉しい時。友達から贈り物が届く。ピノの中に星型のをひとつ見つける。玄関を開けたタイミング、乾いた涼しい風が吹く。友達から "オシャレだね" と褒められる。上着のポケットから1000円札が出てくる。これらはきっと、すべて嬉しい。心内、「すごく嬉しい」と思う。

 人間として生を受け、ワンワンニャー以外の表現を許された以上、僕らは言葉を使って何かを表現する。美味しいものを食べた時、「おいしい」と言う。好きな人には「好きだ」と言う。悔しければ「悔しい」、悲しければ「悲しい」と言う。

 物書きとして生きる僕は、そうした「嬉しい」だとか「悲しい」だとかの気持ちをどう表現したら良いか、日々捏ねくり回すように考えている。嫌味にしつこくない言い換えを探したり、そこにたどり着くまでの道筋を綺麗に整えたり、頭に持ってくるのかお尻にとっておくのかを天秤にかけて考えたり。「どのようにすれば、その心の動きをきっちり伝えられるか」ということを、ひたすらに考え抜く。


 上は、文章においてである。ある程度の時間的余裕が保証され、ほど良い距離感が保たれた、「文」という場所においてである。

 これが、対人関係だとどうか。見える聞こえる実存の世界だとどうか。文頭に書いた例、5つを見てみる。「友達からの贈り物が届く」、「ピノの中に星型のをひとつ見つける」、「玄関を開けたタイミング、乾いた涼しい風が吹く」、「友達から "オシャレだね" と褒められる」、「上着のポケットから1000円札が出てくる」。

 すべて、きっと「嬉しい」と言う。服装を褒められれば、「嬉しい!ありがとう!」と言う。風を感じて「あー、嬉しい!」と口にする人間はあまりいなさそうだが、心の中ではきっと(涼しくて嬉しいなぁ)と思うはずだ。僕らは、嬉しい時に「嬉しい」としか言えない。「やったぁ!」とも言えるが、それに付随し主役となるのは、いつも「嬉しい」である。

 「火が噴くように嬉しい!」とか「爆発しそうだ!嬉しい!」とか、きっと言えないんである。玄関先で「あの頃のお母さんみたいに優しい風、嬉しいなぁ」とひとりつぶやく奴は、断じていない。僕ら人間は、豊かに言語が与えられた手前、話すとなると俄然丸裸になってしまう。すごく嬉しい時、「すごく嬉しい」としか言えなくなってしまう。

 それは、純真な「すごく嬉しい」という気持ちを表す上で、その気持ちを余すこと無く100%伝えようとすれば、「すごく嬉しい」と言うより他無いからである。その時、「おどろくほど嬉しい」とは言えない。文字上小学生みたいではあるが、「すごく嬉しい」と口にしたくなった時、それはすごく嬉しいんである。100%だ。そのものの気持ちだ。


 文章の表現と、対人コミュニケーションの表現は違う。が、時折それを全部混ぜてしまおうと思うことがある。前者を後者に織り交ぜて、友達に「いやー、茹で釜のように暑いな」とか言ってしまう。「いや、鋭い棘鉄球みたいなコメントすんなよ」とか言ってしまう。

 またその逆、対人コミュニケーションにおいて使う「話し言葉」みたいなものを、文章表現に織り交ぜることもある。

「深夜2時。いざ寝ようと布団に入ったすぐのち、一匹の蚊が耳元をちらつく。高くもなく低くもない、真なる "不快音" を撒き散らして、時折僕の耳に降り立ったりする。むかつく。追い払おうして右手を布団から抜けば、その瞬間都合良くいなくなったりもする。次第に苛つきが増幅。むかつくむかつく」

とか書いてしまう。「むかつく」と書く。あまり推奨されない表現である。ただ、それは「立腹する」ではない。なんなら「ムカつく」でもない。「むかつく」んである。眠い目をこすっている深夜2時の三浦は、蚊に対して「立腹する」ではなく「ムカつく」でもなく、「むかつく」のである。頭が回っていない状況の表現。ひらがなの平坦な見た目が、就寝前の単細胞的な脳の働きを表す。生の声として聞こえてくる。


 昨今は、「エモい」が害悪だとされる世界になった。僕はそれが嫌いだ。エモいと思ったなら、「エモい」で良い。言語表現をサボっているとか何とか言われるのをよく見かけるが、良いだろ別にと思う。むしろその方が良いだろ、ぐらいに思っている。思ったことをそのまま口にするのは尊いことだ。それは誰にも批判できない。よっぽど悪いのは、本当は内心「エモい」と思っているにもかかわらず格好つけちゃって、表現をグチャグチャにしてしまう方である。エモいなら、そのまま「エモい」で良いのだ。

 すごく嬉しい時は、「すごく嬉しい」。そのままの気持ちを、飾ることなく表現する。表現の限界は、そこに有るのだと思う。また、それを尊いと思えないと、文章なんか書けたもんじゃないです。思ったことを、思ったままに。自分の気持ちや感情に対して素直な気持ちで向き合い、その末生まれたものを言葉として発する。これがもっとも重要なんじゃないかなぁと。下記、関係ありそうな文章をまとめました。是非読んでみるときっと良いはずです。

丸裸の人が好きだ。僕も丸裸になりたい。
https://note.mu/miuranozomu/n/n41d81edce8b4

伝え方ひとつで、世界はもっと美しくなる。
https://note.mu/miuranozomu/n/nb2ed6c52e243

「無作為」こそ美しい。
https://note.mu/miuranozomu/n/ne5792da74015

文章表現は、0→1じゃない。https://note.mu/miuranozomu/n/neb5f955ebc2f

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