何でも良いから、とにかく死なないでくれ。

 金曜の夜は酒を飲みすぎて、明け方6:00、土曜日の朝に帰宅した。最近は部屋の掃除を怠っていて、部屋には、黒いしわくちゃな服と、古い汗のような気持ち悪い匂いが充満している。頭も体も洗わず、全部昼過ぎにやればいいやと煎餅布団に寝転んだ。6:30のことだ。

 携帯電話がけたたましく鳴って、イライラしながら起きた。電話だ。北海道に住む、お父さんからだった。

 『何してんのよ 何回もかけたぞ』と彼が言う。僕は咳払いのひとつもせず、ガラガラの声で「酒飲んで帰ってきて寝てたわ」と言った。直後に『バカかこんな時に』と言われて、イライラした気分が少し増長され、「こんな時って何だよ!!」とちょっと大きい声を出した。

『じいさん、死んじまったよ』

 あー、と思った。瞬間、それ以上も以下もなかった。感情が動くいとまも無く、急にものすごい量の涙が出てきた。さきほどまでの酒は、そのおかげで全く気にならなくなった。本能で、ぼろぼろ泣いた。理性がどうだ、過去の記憶がどうだ、そんなものが一切作用しないまま、嗚咽するだけ泣いた。

 クロスワードを必死に解いていた姿。病室にいた時も、ずっとクロスワードばかり。『ボケ防止だよ』とうそぶく顔が鮮明に浮かんでくる。入院前は丁寧に剃り上げていた禿げ頭も、ベッドの上で過ごすようになってからは、ぽやぽやと産毛のような髪が目立つようになっていた。

 僕が「何か食いたいものある?」と聞くと、いつも決まって『桃食いたいな お金あげるから買ってきてよ』と言った。引き出しをすっと開けて、中から巾着を取り出す。毎度、細かく畳んだ一万円札を僕に差し出した。「そんな、一万円もする桃無いでしょ」と言いながら断る。いつも断った。でも、いつも僕の手に握らせようとした。しわくちゃの手が僕の右手を捕まえて、無理やりに開く。紙の感触を認識すると同時に、弱々しい握力に僕の右手が閉じられる。毎回だった。

 桃を携え病室に戻る。またもクロスワードだ。眉間のシワを、いつにもまして深くしながら。鉛筆を紙に滑らせる、「シュー、シュッ、シュルシュルシュッ」という音だけが、無駄に広い病室の中で響いていた。ちょっと大きい声で、「買ってきたよー」と僕。散歩前の犬みたいな顔で、こっちを向いた。

 『おお!ありがとう!嬉しいなぁ でも、もうあんまり食べたくなくなっちゃったよ』と言った。病人に強い言葉をかけるのは良くないが、「はぁ?何だよそれ」と答える。桃が食べたいと言ったのは何だったんだ。食べたくねえのかよ。いささかイライラしながら、ベッドの横に置かれたパイプ椅子の上、貧乏ゆすりをしながら下を向いて、ピンクの産毛をひたすら撫でていた。一言も喋らなかった。

『持って帰りなよ お土産にしたら良い お父さんとお母さんとお前、3人で食べなよ』と、小さい声が聞こえてきた。直後、僕の目から大量の涙が出てきて、もはや彼の顔を見ることもできなかった。どうせ、最初からそのつもりだったんだろ。流動食みたいな飯しか食わせてもらえず、他の物なんか食っちゃダメだったんだろ。飲み水の制限もあったもんな。桃なんて、水分80%くらいだ。無理に決まってるよな。もう、全部ダメだ。俺はなんてことをしてしまったんだ。こんな優しいお土産の渡し方、他にあるもんかよ。ふざけんなよ。

 下を向いてズルズル泣いたまま、「ありがとうございます また来るよ」と言った。顔を見ることもなく、涙を拭きながら病室を出た。思えば、あれが最後だったんだな。あの桃は、俺が一人で全部食ったよ。お釣りの八千円は、何に使ったかな。もう覚えてないや。

 泣いちゃうな。困ったよ。死ぬなよ。ふざけんな。死ぬんじゃねえよ。桃ならいくらでも買って持って行ってやるよ。1mmのタバコも、クロスワードの本も、鉛筆削りも、老眼鏡の洗浄液も、全部買ってやる。なんで死んじゃうんだよ。死ぬなよ。生き返れよ。今生き返ってくれ。一瞬だけでもいいから、生き返ってくれや。せめて桃を一口食うまでは耐えてくれよ。一万円も要らねえよ。ひどいよ。

 これから、彼の葬式に向けて北海道へ帰るつもりだ。格好付けて、桃のひとつでも持って帰ろうと思う。ちょうど旬を迎えた、とびきり美味いのが売ってるんだろうな。なんで食わねえまま死んじゃったんだよ。もったいねえなぁ。

頂いたお金で、酒と本を買いに行きます。ありがとうございます。