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覆い尽くす葉の向こうに見えるのは

私は若い頃
美術批評というものが苦手でした。

嫌だなと思う見方をするのが、全員ではないと今はわかるし、学問としての探究としてあるということも今は理解してるし、なるほどそんな時代背景があるのかなど調べあげられた情報と分析に感心したり勉強になることもあると今は理解できてる。だから若い頃と言うのですが…。

でも今も時々似たような気持ちになることがあります。

その場に居なくなってしまった人が、きっとこれが一番好きだったであろうとか、こう思ってたはずだとか、こんな人だったとか。まるでその人の心の中を聞いたかのような話を聞いた時です。

人の心なんて本人もわからない。
そんなに簡単にわかるほど薄くはないと思うから。
覆い茂った葉の先に見えるかすかな風景を想像で補うのは、ここの自由だしそれも一つの愛のかたちだけれど、この緑の風景は本当に緑であることを想定するのか、コンクリートの中の一つなのか、Tシャツの柄の一つなのかは、それぞれが知ってる情報からどれに想定するかでしかないのだから。

本人だけが、その葉の数枚先の自分の心を見れるだけで。
でも、全て取り除いて丸裸の自分に向き合える人は少ないと思う。私はそう。

ただ見えていたもの、その尊さと愛らしさを愛していてくれたら、その作者は喜ぶのだと思う。
どんな背景でどんな苦しみでその作品(人生)を紡いだかよりも。

そして、

懸命に生きて残したものが、私の全てであるとも思われるほどに行きたいと思う。

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