足元にある、自分にしかできないこと~日本講演新聞

日本講演新聞は全国の講演会を取材した中から、為になることや心温まるお話を講師の許可をいただいて活字にし、毎週月曜日、月4回のペースで発行する全国紙です。

耳で聴くみやざき中央新聞 『足元にある、自分にしかできないこと』 朗読~広末由美

絵本作家の森野さかなさんは3歳の時のことを今でもよく覚えている。朝、目が覚めたら隣で寝ていたお母さんが死んでいたからだ。心筋梗塞だった。父親はというと、別の女性の家で寝泊まりしていて留守だった。

 お母さんの葬式の日に新しいお母さんはやってきた。そしてその日は、言われなき暴力の始まりの日でもあった。来る日も来る日も信じられない虐待が続いた。当時の火傷の跡は三十数年経った今でも体に残っているそうだ。

 2年後、貿易商だった父親は5歳の娘を東南アジアに養女に出そうと言い出した。そんな話を聞きつけて、東京に住む亡き母方の祖父母が孫娘を引き取ることになった。

 実は、森野さんのお母さんが急死した時、おばあちゃんは末期の子宮がんで入院中だった。子宮、卵巣、卵管、膀胱が摘出され、大腸、小腸、腎臓の一部も切り取られた。

 夫であるおじいちゃんには「手術は成功しましたが、生存率は1%もありません」と告げられた。

 それから2年。瀕死の状況でありながらおばあちゃんは何とか生き抜いた。そして3歳だった少女もまた虐待の日々を生き抜き、5歳になっていた。

 少女は虐待から解放された。しかし、祖父母の家に引き取られる日、新幹線に乗り込む少女の気持ちは悲しみでいっぱいだった。「私は悪い子だから家を追い出されるんだ」、東京駅に着いてからも祖父母の家までメソメソ泣いていた。

 祖父母の家は貧しいアパートの一室だった。中に入って少女は戸惑った。テンションの高いおばちゃんが大勢いたのだ。「○○さんの家に小さな子がもらわれてくる」というので、近所のおばちゃんたちが歓迎会を開いてくれたのだった。おばちゃんたちは口々に「よく来たね」「いい子だね」と言った。

 少女には何が起こっているのか分からなかった。「誰が新しいお母さんなの?」と思った。

 「あのおじいちゃんおばあちゃん2人に子育ては大変」と、その日から5歳の少女はたくさんの大人たちに温かく、大切に育てられることになる。

 小学生になる日がやってきた。文房具一つひとつに名前を書く、上履き入れの袋、体操着入れの袋、雑巾等々、準備しなければならないことがたくさんあった。おばちゃんたちは分担を決めて家に持ち帰り、入学式までには全部揃った。

 参観日や学芸会の日、おばあちゃんの体調が悪い時は、必ず誰かが代わりに来てくれた。遠足の日にはたくさんのおかずが集まり、誰よりも大きなお弁当になった。極めつけは運動会。運動場に一箇所だけ異常にテンションの高い集団があった。自分の名前が書かれた垂れ幕が出た年もあった。学年が上がる度に恥ずかしくて仕方がなかった。でも嬉しかった。

 森野さんは言う、「どのおばちゃんもみんな輝いていた。いつも笑顔だった。喜んでいるのはお世話になっている私だけじゃない。手を差し伸べているおばちゃんたちも喜んでいると思った。私もいつかあんな大人になりたいと思った。私が絵本作家になった動機もそれでした」

 「国境の向こうで地雷撤去をしている人たちや、難民キャンプでワクチン投与をしている人たちだけが、世界平和に貢献しているんじゃない。子どもに120%の愛情を注いで育てることも世界平和に繋がっていると思う。立場を入れ替えることができないということは同じ価値があるということだと思う」

 たくさんの人の愛情をもらって育った森野さかなさん。彼女の『こどもの人権を買わないで』という作品は日本ユネスコ協会の「2000年平和の文化国際年」記念出版作品となった。また日本ユニセフ協会の推薦図書として、世界各国の子どもに関するイベントで展示された。

 「足元にある、自分にしかできないことをやることが本当の世界平和なんじゃないかな」と森野さかなさんは言う。

(日本講演新聞 2013年4月22日号 魂の編集長・水谷もりひと社説より)


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