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私の持論「人間は、みんな変」である

世の中には、いろんな生き方や趣味嗜好があり、社会的マイノリティでも暮らしやすい社会をとか、ダイバーシティを目指そうとか、そんなことが叫ばれてからもう何年くらい経つのだろう。

「多様性を認めて、それを受け入れられる社会を」

うん。とってもいいと思う。人がカテゴライズされる社会には、やっぱり違和感を覚えるし、いろんな人たちが幸せに生きやすい世界を築けるならば、積極的に実現してほしいと願っている。

そもそも多様性を受け入れるか、受け入れないかといった次元の話の前に、「人は、何かしら変わった部分」を必ず持っていると、私は思っていて「人は、みんな変」なのだと、ネタ的にもあえて主張している。

「自分は普通」と思っている人でも、人と変わった趣味・嗜好や癖をひとつくらいは持ってるはずだし、「自分だけが変」でもなければ、「あの人って変だ」と陰口を叩いてる場合でもない。自分の心配をしよう。

「誰もが、変わった部分を持っている」

世の中そういうものだと思えたら、差別や誹謗中傷などとは無縁な人生を送れるだろうし、人と比べることも、誰かを妬むことも無縁に暮らせるんじゃないだろうか。

多様性のある人たちや社会を、まずはその事実を一旦丸っと受け止めてから、自分にとっての安全圏をキープして、ノイズに感じることから距離を置き、でも食わず嫌いを捨てて、自分を大切にできる選択をしていけばいい。

「多様性」という言葉に引っ張られて、無理に人間関係を広げたり、自分にとっての違和感や不信感をデリートしてまで受け入れる必要はなくて、自分は何に幸せを感じて、どんな環境にいると安心できるのか、心と対話しながら健全に生きていきたい。つまり、敏感に危険を察知して逃げる瞬発力も必要なのだ。


私の持論は「人間は、みんな変」であるだ。

だから他人の目を気にしたり、周囲の人たちと自分を比べて落ち込む必要はないってこと。ネガティブな感情は誰しもが抱くことで、上手く付き合っていくには、いろんな自分を認めてあげることが大切なんだと思う。

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