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関わりすぎる保護者たち

みなさま。


どうもお疲れさまです。半人前コーチ@もうすぐ寝ます。ちょっと眠いですが、書いてみようかと思います。


で、最近ちょっと考えることがあります。それは、我々が指導されていたあの頃と、我々が指導している時代の違いについて。


先日、私のチームでは1泊2日の合宿がありました。高校生のチームでは泊まりで遠征とかは珍しくないですが、小学生のチームは年に数回しかありません。ま、夜ご飯くらい楽しくてもいいかと思っていたのですが。。。

子供たちの行動にも驚いたのですが、保護者の方の行動にも、私は驚いてしまいました。

こどもたちのお茶のお代わりを、保護者が手伝っているのです。「醤油をとって」という子供からの依頼で、親が動いているのです。食事をしている子供たちを、親が写真を撮って回っているのです。

私は先に、子供たちに言いました。食事が終わるまでは、歩き回るなと。(当たり前ですが)

それを、食べ終ってからならまだしも、食べる途中で写真を撮りに行っていて、子供に食べ終わるまで歩き回るなと注意できるのでしょうか?

私は子供たちに、お茶のお代わりや、足りないものを取りに行くときだけ、
席を立ってもかまわないといいました。(これも当たり前ですが)

そんなところまで手を貸さなければ、子供たちは、自分で出来ないのでしょうか?

私は保護者の代表に注意しました。自分たちでできることは、自分たちでやらせてくださいと。これも個人的には、当たり前だと思っているのですが。

先日の当方の試合で、恥ずかしいことが起こりました。ハーフタイムのアップが、どちら側か理解していないのです。

私は小学生の頃、下手なりにキャプテンをやってましたが、どちらのコートでアップをするか、組み合わせでどちらだと、ユニフォームが何色なのか、コーチに聞いてました。(みんなに伝えなくちゃいけないし、それをやらなくちゃ怒られるかも。という気持ちからだったかもしれませんが)

前述の我がチームの試合で、ハーフタイムのアップが遅れた際に、保護者の方が言いました。「私の指示が間違っていたんです。すみません」と。

これ、指示する必要があるのでしょうか?(最初の一回なら別ですが)自分たちでは出来ないのでしょうか?

モノだけではなく、今の子供たちは、いろいろなものが与えられ過ぎていると思います。

その結果として、子供たち自身で、
  - 考えて、行動する力
  - 立ち向かっていく力(精神力含む)
が、減衰しているように思います。

もちろん、それは私自身、つまり指導者の責に帰するところも大きいです。

数年前までは、これらは「暗黙知」として認識されていましたが、それを、暗黙知のままにしていたのは、指導者の責任だと思っています。おそらくこれからの社会状況や教育環境を鑑みたときに、「暗黙知」を「明文化」しておくことは重要だと思います。

これまでに暗黙知で共通認識があったと思われていたことも、明文化しなくてはなりません。文章化しなくとも、意思表示や伝達をしなくてはなりません。

そう、指導者の常識は、保護者の常識ではなくなっているのです。ですので、改めて認識をすり合わせる必要があるのです。

それを、体現できていなかったところについて、今後改善していかなければなりません。

先週、学校の先生をしている方とお話をする機会があり、いろいろと議論させていただきました。その方は、こうおっしゃっていました。

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確かに、家庭教育の質は低下している。それは、物質的な問題もあるし、環境もある。家庭環境や教育は大きく変化しているにも関わらず、学校教育は変化できていない。教育者は、過去のやり方を続けていただけでは、成果は上げられない。

しかし、教育者はその変化への対応を考えるどころか、その変化に対して受動的にしか動くことが出来ない。自分たちで、どういう色に染めたいのか、どうやったら染めることができるのか。それを考え抜いている教育者はいない。

なぜなら、教師は生活のための”生業”であるから、変化というリスクを、そこに追うことができなから。

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本気で子供たちを成長させようと思うのなら、まず変わらなければならないのは、我々かもしれません。

以上、夜中の半人前コーチがお送りしました。

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