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甦れ、輝いていたフジテレビ——初めて語るフジテレビ時代の秘話、同期は有賀さつき、河野景子、八木亜希子アナ


21年勤務していたフジテレビのことは、今まであまり多くは語ったことはありません。定年退職でない場合、退職した方が在職していた会社をよく言わないことが多く、気持ちがいいものではないと思っていました。どこの会社にもいいところと悪いところがあります。いい思い出をあえて綴ってみました。まぐまくメルマガで今年2019年に掲載したものに加筆したものです。(本文約9800字)

【著者プロフィール】
三宅 雪子(みやけ ゆきこ)
元衆議院議員。1965年(昭和40年)3月5日ワシントン生まれ。
父は三宅和助(外務省元シンガポール大使・中近東アフリカ局長)祖父は石田博英(石橋湛山内閣官房長官・労相6回運輸相1回務める)幼少は海外で育つ。
桐朋女子高校、玉川学園女子短期大学、共立女子大学を卒業。民放テレビ局に21年間勤務(営業局、報道局、国際局等歴任。CSR推進室で環境・社会貢献に関わる。報道局では経済部記者として為替と株式を担当)。
2009年第45回衆議院議員選挙、群馬4区から福田康夫元総理の対抗馬として立候補。北関東ブロックで比例復活当選。予算委員会、厚生労働委員会に所属、民主党国際局副局長などを歴任。
2012年7月より「国民の生活が第一」入党。党選挙対策副委員長。
2012年12月千葉4区から立候補。
2013年1月生活の党。2013年7月参議院全国比例代表選挙惜敗(2位)。現在無所属。
執筆やネット配信など、政治特に福祉や雇用など専門分野を軸に社会で起きていることをわかりやすく伝えていくことに力をいれている。
2016年6月10日号の「投票時間繰り上げの謎を追う」(週刊金曜日)が初のルポルタージュ。
2019年4月5日号から「日刊ゲンダイ」紙に、シリーズタイル「高齢者はなぜネトウヨにはまるのか」として、高齢者ネトウヨが大量懲戒請求を起こした問題について全16回に渡るルポを掲載。

フジテレビ入社の経緯 (1)入社試験

1980年代、フジテレビは「楽しくなければテレビじゃない」をキャッチコピーにバラエティ番組がヒット。視聴率は民放でダントツトップでした。人気が高かったフジテレビに私は「総合職」(フジテレビでは「一般職」)として入社しました。振り返ってみると、運がよかったと思いますし、何事にも代えがたい経験をしました。

入社前の経緯をこの回では書きます。

私は玉川学園の短期大学から共立大学に編入をしました。当時短期大学卒業=短卒は各企業で引く手あまたでした。いわゆる「買い手市場」だったんですね。(反対の女性大卒は苦労したと記憶しています)私はマスコミ希望だったのですが、短大卒の場合、事務職になると言われました。(その後しばらく短卒採用は中止になりました。今はわかりません)そのため大学へ編入したのです。

大学4年だった1987年の春「マスコミセミナー」といういわゆる青田買いの場があり、ここが事実上のフジサンケイグループ採用の1次試験でした。(その前に書類選考はありました)フジサンケイグループのどの社が希望なのか書くように言われ、第1希望「フジテレビ」第2希望「ニッポン放送」と書いた覚えがあります。

そこでの成績は英語では上位でしたが、国語などは全然ダメでした。結果を見て「だめかも」と思いましたが、英語で何とかカバーできたのか、2次試験に進むことができました。3次(部長面接)4次(役員面接)と人数は減ってきました。親しくなった人の姿が次の試験では見えないと寂しい気持ちになります。
ライバルなのですが、一緒に受かりたいと思いながら面接に臨んでいました。最終面接は錚々たるメンバーでした。その後NHKで活躍した女性アナウンサーやコメンティターになっている女性もいました。ちなみにこの年のフジテレビアナウンサーは、河野景子さん、有賀さつきさん、八木亜希子さんの3人でした。

思い返すと、1989年4月16日に亡くなった故鹿内春雄社長が最後に面接した社員となりました。内定は、かなり早い時期でした。

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