レストランのご飯と、妻の作るご飯

先日、妻とのドライブ中、カーナビの中のテレビ番組である企画をやっていました。
企画の内容はすっかり忘れてしまったのですが、街灯インタビューの中である青年が、『お金を出して食べるご飯よりも、恋人とか大切な作ったご飯の方が価値がある』と言っていました。

多分その青年は深い意味を込めて言った訳ではないと思うので、その青年に対しては何も思わないですが、少し考えさせられるような言葉でした。

そもそも価値とは?

「価値」ってなんでしょう?

価値(かち)とは、あるものを他のものよりも上位に位置づける理由となる性質、人間の肉体的、精神的欲求を満たす性質、あるいは真・善・美・愛あるいは仁など人間社会の存続にとってプラスの普遍性をもつと考えられる概念の総称
殆どの場合、物事の持つ、目的の実現に役に立つ性質、もしくは重要な性質や程度を指す。何に価値があり、何には価値がない、とするひとりひとりのうちにある判断の体系を価値観と言う。<出典:Wikipedia>

重要なのは、

「一人一人の”内”にあるのも」

ということです。

価値のある”もの”、価値のある”人”は「誰にとって」「どんな」「何の」価値があるのかは本来規定されるものではないということです。

その上で、一定の基準の中で程度を規定したものが、「お金」「身長」「好き嫌い」などの定量的定性的な「価値」だということです。

価値の単位は単一?

であれば、「お店のご飯」と「妻のご飯」は同じ価値基準で測れるのでしょうか。

そもそも何を以って「価値」を測っているのかを考えたいと思います。

「お店のご飯」:
食材の価格、食べログの評価、内装、味、シェフの経歴・・・
「妻のご飯」:
過程・手間への感謝、どこにも売っていない、僕の生活全般と直結して考えられている栄養バランス構成、”好きな人が作った”という唯一無二感

むちゃくちゃ僕の主観ありきで書いてみましたが、まあこんなとこでしょう。

ご覧の通り、「お店のご飯」と「妻のご飯」を、僕たちは全く違う価値観で捉えて、評価(適切な言葉が見つかんないw)しているのです。

もし、多くの人もそう思っているのであれば、テレビの中の青年が言った「お金を出して食べるご飯よりも、恋人とか大切な作ったご飯の方が価値がある」は、価値を定義する上で少し検討違いなのではないかと思います。

正確には、「お店のご飯も、妻のご飯も、両方美味しいけど、〇〇の価値ではお店の方がいい、でも、△△の価値では妻のご飯の方がいい」というのが適切であるように思います。

お金を出して食べるご飯は美味い!

僕は、妻のご飯が好きなので価値判断に多少のバイアスがかかりますが、それでも、「お店のご飯は美味い!」と思います。

プロが作ってくれるので、味は一定レベル以上は保証されているし、広く評価を得ているので安心感はあるし、家でなかなか作れない(手間のかかる揚げ物や寿司や踊り食いなど)ものも食べられます。

「外食は好きじゃない」という人もいますが、正確には外食そのものではなく、「外食」を構成する要素のいくつかが自分の価値観と合っていないのではないかと思います。

他人がたくさんいる場所で食べたくない
行儀悪くてもリラックスして食べたい
お金をかけたくない
食べたらすぐ風呂に入りたい(これ僕)

など、自分の大切にしたい価値観の多くを満たさない場合に「不快感」に変わります。

価値観は人それぞれ違うし、「いい」「よくない」で規定できるものではありません。

皆さんは自分の価値観で生きていますか?

それとも、「誰か」に規定された幻想の価値観の中で生きていますか?

どちらが幸せか、

それもまた、人によって違うのでしょうか。


<終わり>



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