【知覧特攻平和会館】に行ってきた。①
先日、古くからの友人2人と鹿児島に行ってきました。
「”古く”って、20代の奴が何を言うとんねん!」とお思いでしょうが、1人とは20年以上の付き合いなので、まあまあ古いでしょ?笑
2人とは、大学時代から年に1、2回旅行に行っています。
3人ともお酒と温泉が好きで、いろんなところに行ったものです。
社会人になり、地元岡山・神戸・東京と拠点がバラバラになった今でも数ヶ月前から予定を立てて旅行に行っています。
今回は鹿児島。
全員一致で即決しました。
候補の条件は、
・有名な温泉があること
・お酒が美味しいこと
・旅費が安いこと
上記に合致するところはいくつかありましたが、3人で九州に行ったことがない(沖縄はありますが)ということで決定しました。
あともう一つ、鹿児島に決定した理由があります。
それが、今回のnoteで書きたかった「知覧特攻平和会館」です。
数多くの映画や小説の舞台になった場所であり、戦前戦後の日本を語る上で決して避けて通ることのできない場所です。
実際に自分の目で見てみると、心の揺れや感情の震えでは収まりのつかない状況になってしまったので、
noteに書ききれるかな?何文字になるかな?何投稿かに分けようかな?と考えながら、今書いてます。
でも、下書きをしたり、何度も表現を考え直したりするのは、あまり好きではないので、感じたまま、溢れたまま書いていこうと思っています。
もし、稚拙な表現、勉強不足な表現があれば、コメント・Twitter・DMなどで教えていただけると嬉しいです。
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「知覧特攻平和会館」って何?
「知覧特攻平和会館」とは、鹿児島県南九州市にあり、第二次世界大戦末期に編成された大日本帝国陸軍航空隊の特攻に関する資料を展示する施設です。知覧特攻平和会館が建てられている場所とその周辺は、知覧平和公園としても整備されています。
第二次世界大戦の末期、戦況が悪化した日本軍は、”禁断”とも言われた最後の作戦を取ります。
戦闘機に沖縄周辺までの片道のみの燃料と通常の2倍以上の爆弾と積み、敵の空母に突っ込みます。
作戦の実行で確実に達成されることは、
・ほぼ確実に敵にダメージを与えられる。
・確実に戦闘員が死ぬ。
特攻の対象となった戦闘員の多くは、10代後半〜20代の若者でした。
一緒に行ってくれた友人の存在
まず、初めに、旅行の工程の中に「知覧特攻平和会館」をメインコンテンツとして入れることができたことに喜びと、友人への感謝を書いておきたいと思います。
価値観や環境が全く違う友人2人と、心のそこにある”何か”で繋がれている気がして、「自分は間違っていなかった」と思えました。
「やっぱり日本人としては、一回行っとかんとな。」
そう語った友人。
そう感じられるっていいよなあ。って嬉しくなりました。
以前から行きたいと思っていたんですが、何かしらの言い訳をつけて行けていませんでした。
そんな僕の背中を押してくれたようでした。
知覧の高齢化と「僕の介護」
6月7日金曜日。
初めて知覧に足を踏み入れました。
入館券を買って、中に入って驚きました。
70歳以上(おそらく)の方々が半分以上いらっしゃいました。
杖をついている方や、車椅子の方の姿もありました。
多分20代3人以上のグループは自分たちだけだったと思います。
こういった場所でも、やはり高齢化しているなあ、と思うと同時に、
若い人の少なさに少しばかりのさみしさを覚えました。
というもの、僕が「介護」の仕事を志したきっかけに【戦争】が大きく関わっていたからです。
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15年ほど前。
僕が初めて”ボランティア体験”をしたデイサービスで、あるおばあちゃんの話を聞きました。
当時98歳、今だと113歳の年齢のおばあちゃん(川上さん)が、僕に語りかけるように戦争の話をしてくれました。
当時、まだ小学生ぐらいのお子さんが2人いた川上さん。
ある日、日本軍にいたご主人から連絡がきました。
「何も言わなくていいから、今すぐ子供らを連れて”呉”に行け!電車に乗れ!」
その当時、川上さんは広島県広島市に住んでいました。
ご主人のその言葉を聞き、早朝、2人の子供を連れて電車に乗り、広島県呉市までやってきた川上さん。
”疲れたなあ”と思いながら、地元広島市の空を見上げた瞬間。
強い風とともに、見たこともない大きなキノコ雲が出現しました。
「原爆」です。
”えらいことになってしもうた・・”
そう思った川上さん。
それから、お子さんが大きくなるまでの間、親戚の家や知り合いの家を転々としながら生活されていたそうです。
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当時98歳の川上さんは、とてもお元気で、身体も歯も丈夫。
元気の秘訣を聞いたら、
「だって、あんな経験したんだもの。」と笑顔でした。
さらに続けて川上さんはこう言いました。
「戦争の話は、誰もあんまり話したがらんやろぉ?わかる?せーぐらい(それくらい)大変なことじゃったし、あれ、わけーひと(若いひと)に話してもよーわからんじゃろうと思うんよ。」
当時、戦争経験者の高齢化が問題になっていた頃で、”語り部”の現象なども問題になっていました。
もし、僕がこの仕事に就いて、こういった話をたくさん聞いて、そして、僕がまた、自分よりも若い人に伝えることができれば、どんどん想いをつないでいけるかもしれない。
当時のボランティアの感想文には、こんなことを書いたように記憶しています。
戦争を風化させたくない。
当時の少年三宅は、そんな想いで介護の仕事を志しました。
そんな経験もあり、今回の知覧訪問により、高齢化と風化にさみしさと悔しさが込み上げてきました。
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今日はここまで!!
次回以降は、こんなことを書いていきたいと思います。
・最前線にいたのは、”子供”
・お母さんにも、きっと、本心が言えない、でも、きっと、伝わっている
・「間違っている」って言っていいの?
・涙が出ないくらいに
・ビデオ会議が嬉しい
・次は、僕たちが語り部に。
シニアの方々が、主体的に・楽しく生活し続けられるよう、頑張ります!少しでもご協力頂けると幸いです。