嫌われることへの恐怖感が消えた

ー嫌われてたり、悪口を言われたり、わざわざ揚げ足を取ってみたり、避けられていたり。

皆さんはこんな経験ないですか?

昔はありましたか?

今もありますか?

最近の僕はこういう場面によく遭遇するようになりました。w

自分では、「正直に生きているから」だと思っています。


嫌われないようにする教育


「みんなと仲良くしなさい」

こんなことを小学校や中学校で教わりました。

今思えば、かなり馬鹿げています。

でも、「みんなと仲良くしなくちゃいけない」と僕は信じていたし、
僕の周りの子供たちも信じていたはずです。

”人は傷つけてはいけない”
”自分の嫌なことを人にしてはいけない”
”人に親切にしなければいけない”
”仲良くしなければいけない”

まるで「義務」であるかのように押し付けられた少年時代でした。

そんな環境の中に身を置いているとどうなるかというと、

・みんなの顔色を伺いながら、恐る恐る行動しなくてはいけない。
・「嫌いになる」ことを忌み嫌わなければいけなくなる。
・自分の心のど真ん中にあるものを隠しながら生きなければいけなくなる。


年齢を重ねるにつれて


僕の知り合いの中学生(女の子)に、「将来の夢は、忍者とギタリスト」と言っている子がいます。

友達に言えているのかはわかりませんが、その夢は小学校5年生から変わっていないそうです。

もしも、皆さんの周りの中学生にこんな子供がいたらどうでしょう?

”そんなことより、次の定期試験はちゃんとしなさいいよ”
”何をバカなこと言ってるの”
”あんまり、よその人に言わないでね”

そんなこと言ってないですか?

聞いたことないですか?

僕は、こんな感じのことを言われました。
学校の先生に。

この子が、今後の人生で、こんなことを言われないように祈ります。
僕は全力で応援します。


社会に出てみて感じたこと


いわゆる”社会人”になって4年が過ぎました。

「生きづらいなあ」と思います。

幸い、僕の周りや会社は、かなり寛大、というか寛大すぎるので、好き勝手させてもらっていますが。

それでも、目的のわからない批判や揚げ足取りによく遭います。


仲間との関係


本業である、会社の仲間との関係について。

日頃接しているのは、ほとんどが現場のスタッフさんです。

言葉を選ばずにいうと、
「僕(三宅)の言っていることが”分からない”」そうです。

分からないというのは、「何言ってんの!ばかじゃないの!」って感じではなく、
「(テクニカルな)理解ができない」ということみたいです。

ミーティングが嫌だったり、(理解できないことで)モヤモヤしたり。

人間って面白い生き物だなあと、自分にも仲間にも思います。


自己の感情との決裂?


そんな、モヤモヤ製造機の僕ですが、

モヤモヤを、本人からや、誰かを通して(三宅くんのことがモヤモヤするらしい)、聞くことが時折あります。

以前は、僕自身もモヤモヤしたり、
すぐに本人と何時間も話そうとしたりしてたんです。

多分、自分自身も怖かったんだと思います。

「嫌われたくない」
「自分が原因でモヤモヤしているとか、恥ずかしい」

とか、本当に自分の感情を抑えることだけに走っていたように思います。

でも、最近、特にここ一年くらいは、
そんな感情がほとんど消え去りました。

モヤモヤしていることをなんとも思っていないことはないんですが、
そのモヤモヤを、僕以外の他のメンバーに”言えている”ことが、「すげーなー」って嬉しく思います。

ぶっちゃけ、僕のことが「大嫌い」でもいいと思います。

その人個人が「幸せ」を感じるのであれば、
僕に対しての感情は、どうでもいいかなあとすら思います。

それは、もしかしたら、今の自分がとても充実していて、
目先の感情や理性よりも、
自分の心のど真ん中にある「最上位概念」で生きているからではないかと思います。

目の前の人が「幸せ」を感じさえいてくれればいい。

そこに自分は介在しなくてもいい。

チームメンバーに対しては、少なくとも完全にそう思えています。


恐怖感の実態


人はなぜ、嫌われることを恐れるのでしょう?

1つは、上記にも記したように、「常識」として教え込まれるからではないかと思います。

「人を嫌いになるな」
「嫌われないようにしろ」

この、”なんちゃって”教育論に支配されながら、幼年期・青年期を過ごすことで、ほとんどの日本人には「嫌い=悪」が、OSとして組み込まれているように思います。

そして、もう1つは、「リカバリーの方法」が分からないからです。

そもそも、「嫌いになるな」「嫌われるな」と教え込まれたことで、社会構造自体が、「嫌いにならない」ことを前提として回っていると感じます。

そのため、「嫌いになった」「嫌われた」ことを”スタートライン”にして、その後を考えることをせずして、社会に出てくることになります。

一部、常識を逸脱している教育によって、「仲直りしなさい」「自分の悪いところを言いなさい」などと言われるもんだから、無理やり考えたくもない”それなりの理由”を口にすることになります。

嫌いになると、
嫌われると、
どうすればいいか分からない。

怪我をしても、
どう治せばいいか分からない。

だから、みんな怖いんです。


恐怖との向き合い方


テクノロジーの進化により、「嫌われること」や「嫌いになること」が増えたように思います。

Twitterやテレビのワイドショーを観てるとわかりますよね。

評論家:宇野常寛さんの言葉を引用すると、

週替わりで標的を決め、石を投げる。
石を投げることで、自分は正しくて、マジョリティー側の人間なんだと安心し、溜飲を下げる。
数十年前は、テレビがその役割(イジメ文化)を担っていたが、SNSの登場により、一般人が有名人や芸能人を直接石を投げられるようになった。
また、一般人が個人間で公共の場(SNS)で、石の投げ合いをするようになった。

では、これからの時代は、どのようにその「恐怖感」を向き合えばいいのでしょう?

嫌われないように生きることは、もはや不可能なこの時代。

ヒントは、

・コミュニティ
・つながりの頻度

だと思います。

SNSやオンラインサロン、サークル、会社、今は様々なところで、浅くも深くも、人と関わりを持てるものが増えてきました。

無理に嫌いな人と深く付き合わなくてもいいし、
お金を出してでも付き合いたい人が見つかれば、参加すればいい。

1つ1つのコミュニティが「閉じた世界」の中でエコシステムを生み出し、
さらに、その中で、濃度の濃淡でレイヤーが分かれていきます。

自分の居場所が選べる時代になっています。

かくいう僕も、

・会社では、多分メインストリームではないけど、好きなことができる。
・地域コミュニティを独自で作っている
・オンラインサロンに浅く参加している
・同業者の集団の中で舵取りをしている

自分に合った、自分の好きな関わり方をしています。

だから、その中で、嫌いになることのなければ、嫌われることも少なです。
もし、嫌いになったり、なられたりしたら、すぐ別の居場所で「好きなこと」を知ればいいのです。
そして、ゆっくりを傷を治し、また元の居場所に帰ればいいのです。


これが、僕の「嫌われることへの恐怖感が消えた」理由です。

参考になれば、幸いです。




今日はここまで!!!!





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