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「天気の子」は何を伝えようとしているのか。

興行収入は100億円を超え、飛ぶ鳥を落とす勢いの映画:天気の子。

この10年間で興行収入100億円を超えたのは、天気の子を除けば、「風立ちぬ」と「君の名は」のみ。

そう、「天気の子」と「君の名は」はどちらも監督:新海誠さん。
そして、企画・プロデュースは、川村元気さんです。

今回は、この「君の名は」「天気の子」の二つの映画を比べながら、新海誠さんと川村元気さんが伝えたかったことを想像しながら書いていきたいと思います。

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自然現象

まず、設定においての大きな違いは、

・SF的現象
・自然現象

だと思います。

「君の名は」:
メインの街として語られる”糸守町”は、隕石(ティアマト彗星の破片)が直撃したことで消滅。
「天気の子」:
雨めっちゃ降る。とにかく降る。基本、雨。

その設定の差から僕が受け取った意図は、「日常」と「非日常」の違い、つまり、天気の子は「日常」の生活の中から読み取れるものである、ということです。

どこまでいっても、この21世紀初頭にあって「隕石」云々はなかなか自分自身の生活と結びつけることは難しいです。

「おとぎ話」ではなく、僕たちが誰でも触れる・見ることができる「自然現象」と密接に結びつけたいのだと思いました。

SNSへの最後通牒

「君の名は」の中ではSNSが比較的好意的に取り上げられています。

主人公とヒロインが結びつきを持ったのもSNSでした。
その他のシーンでもSNSの中でのやりとりを取り上げているシーンが多く、ともすると日常生活の延長線上のSNSが描かれています。
言い換えれば、日常の中で物理的に起きている事象とSNSの中身の整合性が取れているということです。

しかし、今回の「天気の子」ではSNSは全く違ったものとして扱われています。

中盤から終盤にかけて、SNSでつぶやかれる誹謗・中傷、ファクト検証もされていない情報の拡散。
終盤に主人公が線路を走っている姿を見た一般市民の”独り言”を耳をそばだてて聴いてみると、内容はネガティブなものとして受け取らざるを得ません。

このことから読み取ったものは、
人間がSNSに踊らされ、自分の見たいものだけを見る。
そして自分の存在や思想と相いれないものは排斥する。

「君の名は」の時とは明らかに違うSNSの使われ方。

それは、映画の中、というよりも、もしかすると僕たちの日常の中でのSNSの存在感の方がドラスティックなのかもしれません。

失敗したらとにかく石を投げる。

気に入らないものは徹底的に糾弾する。

提案はとりあえず反対する。

自分は正しい。

自分はマジョリティだ。

自分は賢い。


SNSが”明らかにしてくれた”人間の愚かさを表現しているように思えました。


法の奴隷

印象的だったシーンの1つに、
「主人公と大人・警察」があります。

表面的に見れば、「君の名は」においても、「ヒロインと”市長のお父さん”」の関係性の中でも垣間見えましたが、それはどちらかといえば、「娘が父親に対して感情をぶつける」という見せ方を前面に押し出したものであって、「公権力への抵抗」とは毛色の違うものでした。

さらに「君の名は」においては、東京からヒロインの”いるはずの地”を訪れた際に、地域の大人たちは自らの車を出すなど、どちらかといえば「協力的な存在」として描かれていました。

しかし、今回の「天気の子」では、”大人の存在”を少々極端とも言えるほど右傾化させかつ、”邪魔する存在”として描かれています。

特に国家の”法”によって動いている警察組織についてはかなりドラスティックに、小さい子供に見せることを躊躇うほど鮮烈に描かれています。

ふと思い出した言葉があります。
僕の敬愛する社会学者:宮台真司氏の言葉「法の奴隷」です。

法とは”法律”のことではなく、規定された形、”常識”とも言えるし、迎合した一般価値の枠組みとも認識しています。

この「法の奴隷」から”対照的な2つの映画”を見てみると、

「君の名は」の中で描かれている”大人”・”公権力”はある種規定された枠組みを超えてきてくれました。
ヒロイン(娘)の言葉によって動かされ、公権力の”市長”としてあるまじき行動に出ます。
しかし、その行動によって「命」を救う結果になりました。
この一連のシーンを綺麗事と受け取った人も多くいると思います。
(一部、視聴した”大人”からの批評の多くはこの類ではないかと思います。)

また、突然訪ねてきた都会の若者の姿に、一緒に車で糸守の場所まで連れてきてくれた”大人”もいましたね。
その行為はあたかも「自然な営み」として描かれていますが、同じような行動に出る大人は何人いるでしょうか?
僕はこの行動に異常な違和感を感じました。(批判ではない)
規定された枠組みを超えられる存在としての”大人”を非常に自然な形で、違和感なく描かれていたように思います。

一方で「天気の子」においては、「法の奴隷」となった”大人”・”社会”をはっきりと描いています。
田舎から出てきた青年を助けられない”大人”。
青年の希望を捻り潰す黒服の”大人”。
一人の無力な青年に総力をあげて攻撃する警察権力の”大人”。
教育的枠組みの中に押し込める親・教育機関としての”大人”。

どの大人も「法の奴隷」です。
理由も目的も不明確なまま、自分の見たい現実のために、自らの規定可能な枠組みの中で立ち振る舞うクズな”大人”ばかりが強調されて描かれていました。

違和感を抱いた視聴者はいなかったでしょうか?

僕にはとても同じチームが作った映画とは思えないほど対照的に「社会」を描いています。
明らかに意図して描いている、と思わざるを得ないものでした。

「お前らの世界はこんな世界なんだよ。わかるか?」

そんなメッセージが込められていると思うのは、僕だけなのかな?


記憶とスマホ

「人間の記憶」と「スマホ(テクノロジー)」についても印象的に描かれていました。

”AIが人間、社会を駆逐する”
”AIによって単純労働から解放される”
”人間はよりクリエイティブになる”

多くのメディアではテクノロジーと「人間」を二項対立で捉える傾向にあります。

テクノロジーと人間の共存についてもこの2つの映画は対照的に描かれています。

「君の名は」では、人間がテクノロジーを乗りこなしている様子が象徴的に描かれています。
序盤の3.40分間、スマホを中心として物語が展開していきます。
多くの”大人”はここの展開で置いていかれた人も多いと思います。
僕の近しい”大人”の方の中でもそういった意見が多く見られました。

しかし、よく見てみると、物語の本筋は”身体が入れ替わった”ことによって現実の生活に変化が起き、自分の把握できいない現実を「スマホ」を通して理解することになります。
そして、そのスマホの中で見た現実が、物理的世界でもその通り動いていることを実感していきます。
それを何度か繰り返しながら序盤が展開されます。

つまり、人間の記憶をスマホが補完し、スマホ(情報の整合性は高いが、物理的感覚が薄い)を人間の記憶が補完する、という構造になっています。

しかし、「天気の子」では明らかにスマホ(テクノロジー)のもたらした弊害、あるいは”それ”のみでは実現できない社会について描かれています。

最後にそれが象徴的に描かれています。

”天上”でヒロインと再開することができた主人公は、その後気を失い、一気に3年間の時間が飛びます。

警察沙汰になってしまった主人公は地元の島に連れ戻され、”以前と変わらない”日常を過ごします。

ここで注目したいのが、「主人公の記憶の中からヒロインの記憶が消えていない」という点です。

「君の名は」では、主人公の記憶からヒロインの記憶が一旦消える形で再会のシーンに飛びます。

しかし、「天気の子」に置いては主人公の記憶にははっきりとヒロインは残っていたのです。

さらに、行動自体も印象的でした。

主人公は自分の記憶に”世界で一番愛する人”の記憶が残っているにも関わらず、「接触行動」を取ろうとしなかったのです。

今僕たちがいる世界と近しい時代の中で描かれていると想定すると、Facebook的なもので検索して連絡を取ればいいし、ツイッターで検索してDMすればいい。

でも彼はしなかったのです。

おそらく主人公は気づいていたはずです。

「会えなきゃ意味がない!」
「触れられる距離にいなきゃ意味がない!」

SNSの中にいたって、存在を確認できたって、触れて、言葉を交わして、抱きしめなきゃ「現実は何も変わらない」というメッセージが込められていたのです。

テクノロジーによって生活の中から”身体性”が後退し、さらにいえば、身体性がなくても構わない、という振る舞いをする人も少なくないという社会になりつつあります。

「スマホの中にいる。それだけでいいのか?」
「お前らの”愛する”行為はその程度なのか?」

そう教えてくれているように思えてなりません。


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長くなってきましたが、そろそろまとめに入ります。

この世界は・・・

終盤、主人公が晴れて高校を卒業し、再び東京に戻ってきたシーン。

例の”恩人”の事務所を訪れ、挨拶と謝罪をした時、
恩人はこう言いました。

「この世界なんて元々狂ってるんだからよ。」

流れの中の文脈から捉えると、
「天上にいるヒロインを救って、二人で再び地上に戻ってきたこと」
すなわち”超現実”について述べているように受け取れます。

しかし、恩人が真に言いたいことは、その”超現実”なんかではなく、
イマ、ココにある「現実世界」の狂気性・異常性について言及しているように思えます。

「この世界なんて元々狂ってるんだからよ。」

このnoteでここまで取り上げてきた、
・自然現象
・SNSへの最後通牒
・法の奴隷
・記憶とスマホ
が最後の”その一言”で繋がった気がしました。

僕たちが何気なく生きている世界。
変化を感じられない世界。
時間軸によって縛られた世界。
”人がいない”世界。

僕たちの当たり前だと思っている「この世界」は、存在そのものが既に「狂っている」のです。

その狂気性・異常性に比べれば、「天上にいるヒロイン」なんてものは、その狂った世界の”いち事象”でしかありません。

皆さんは今目の前に見えている世界をどう捉えていますか?

もしかしたら、
スマホと共にあり、SNSの中に自分や仲間や”温もり”が全て存在し、規定されているように見える現実に疑いを持たず、自分の身体性が関与できない世界にどっぷり浸かってやしませんか?

「この世界なんて元々狂ってるんだからよ。」

その世界は”あなた”の世界なのかもしれません。


〇〇への配慮

「雨」というキーワードで忘れてはいけないのは、2年前の広島県の豪雨、去年の西日本豪雨です。

「天気の子」は雨を題材にした映画なだけに、多くの日本人にとってセンシティブな内容にどこまで踏み込むのかも注目していました。

僕は”その話題”について劇中ではかなり配慮されているように思いました。

①一般市民の感情を介していない点

都内が水で覆われ、沈んでいく様を”一般市民感情”をできるだけ除いた形で表現されています。

雨によって主人公やその周りの人に困難が訪れる姿のみ描かれていたり、「雨の降った後の穏やかな世界」が描かれていました。

雨が降っている模様を極力描いていないように見えました。

②雨(天災)を”敵”にしていない点

物語の本筋において、「雨」自体を責めていたり、憎んでいるような表現はされていませんでした。

あくまで”自然現象”としての雨を受け入れ、その”プラットフォーム”の上で物語が進行してきます。

むしろ、雨よりも「晴れる」ことがヒロインの運命を変えていくこととして描かれているところも、この映画の興味深さを表している代表的なものだと思います。


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いつの時代も「映画」は時代を先導していくものでした。

ポピュリズムに迎合することなく、常に次の時代を向いています。

”天気の子なんてただのロリコン映画だし、画だけだろ”

そう批判することは簡単です。

でも本当にただのロリコン映画で、画しか魅力がないとしたら、こんなにも多くの人の心を惹きつけるでしょうか。

本質に気づいた人、気づいてないけど何か”違和感”を感じた人が観ている証拠だと思います。

雑誌もテレビも新聞も、今や全ての情報・思想がコモディティ化しています。

そんな時代にあって、
・そこそこの金額
・映画館でしか観られない
という閉じた空間、閉じたコミュニティの中で、誰に文句を言われることもなく「時代」を作ることができます。

そんな「映画」業界は、これからも僕たちに「次の時代」を圧倒的な存在感で見せつけてくれるでしょう。


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こんな話を映画のあと、お台場から見える東京湾を眺めながら、僕は妻に、ここに書いたことを矢継ぎ早に話しました。

「私、そんなこと考えて観てなかった」

なんとも言えない表情で、僕の方を見たあと、すぐに東京湾に目をやりました。

どんなことを考えていようが、感じていようが、それは正しくもないし、間違ってもいない。
映画の力は、限りなく大きな事柄について、時に極端な方法を用いて伝えつつも、多くの人の心に残すことにあります。

興行収入100億円は、そんな無数の”やりとり”の積み重ねにあるような気がしました。


<終わり>



シニアの方々が、主体的に・楽しく生活し続けられるよう、頑張ります!少しでもご協力頂けると幸いです。